2016年5月25日水曜日

29 涅槃経 4

2016/06/30(公開)

29 涅槃経 4 

引用         涅槃経に云く八十入滅


書簡     一代五時継図 131



経に関する謂われには矛盾する事も多々あって、半分は嘘で、半分は本当の事に依った伝えが加味されたものと考えている。 

涅槃経には「八十入滅」 の言葉は無い。

書写し、読誦し、解説し、弘める事、経文には1100回以上も書かれているから、拙い表現の五乗しかない時代でも 口述筆記が行われた事は間違いない筈だ。 

釈迦本人が口説出来たのは、亡くなる直前までの話で、 葬儀の様子やその後の事も事細かに書かれた涅槃経は、どこまでが後代のアレンジかわからない。  
他の経典もほぼ似たような経過をたどったものだろう。
 
釈迦の入滅に関しては、いきなり沙羅双樹の涅槃から始まる阿含経だが、それを一番若い当時の経だとする「五時八経」説は、イイカゲンな話なのだ。  

釈迦の死因とされる、毒キノコを出されて体調を崩し、故郷への旅の途中に亡くなったとの謂れだが、釈迦は自分達をもてなそうとしてくれた者が、釈迦に毒キノコを盛ったと後に言われないようにと、最後まで配慮をされている。 

そのように慈悲深い伝えを知って、「女性は地獄の使い」だとか、「仏がたとえ間違って、眼ン玉落としたとしても、女を成仏させたりするもんか」 なんて言うだろうかと、自分は謂れを疑ったから銀色女経を読んだのだ。

雪山童子が半偈を岩に書き残して、虎に身を投げる施身聞偈の話は、橘夫人厨子の絵で、子供のころに教わった。  
だから「如是我聞」は文字が無かったからだと言う話との矛盾だらけの伝承には、子供のころから 口には出せなかったが、ザケンジャネー との思いもしていた。 

それが涅槃経かどうかは知らなくても、いい話はそれなりに、ダメな話は アホ臭いと判っていた。

大学時代に現実とマッチしない宗教とは完全にオサラバして、外資系に務めて、世界中からいろいろな事を学ぶ事が出来た。 だから今、このブログを書いている。

涅槃経にある「八十」は 入滅ではなく 実は超物理化学の 「八十種好」 に就いてのみだ。  

涅槃経の八十入滅とは、日蓮聖人は何を見たのか、天台で学んだのか、 涅槃経以外にも、その経を直接読んだとは思えない取り上げ方が多すぎる。



以下は間違いではないので カウントしていないが、 検索に注意が必要なので参考のためにファイルしたものである。


引用    涅槃経に云く「法華の中の如し」等云云  

書簡    報恩抄  


引用    涅槃経に云く如法華中八千声聞得受記(竹冠に別)成大果実如秋収冬蔵更無所作云云、
書簡    御講聞書[日向記]  


如法華中 の言葉は 経文は「如法花中」出ないと検索できない。 花と華は同義だから、検索可能にしてもらいたいものだ。


日蓮聖人の引用した経文の20%は間違いだった。

その原因は中華仏教の間違いをそのまま引き継いだからである。


「如法華中」 の言葉は般涅槃經疏 (1767)にも在るが、 当然、智顗の法華玄義、33.0803a16 ページ を引用したものだ。

妙法蓮華經玄義 (No. 1716):にも 「又涅槃云。 是經出世。如彼果實。多所利益安樂一切。能令衆生見 如來性。如法華中」 うんぬんと 涅槃経謂くと書いている。  

同じことは文句にも書かれている。

報恩抄では 如法華中 八千聲聞得受記を付けて、 
「所謂経文に云く「是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞記を受くることを得て大菓実を成ずるが如き秋収冬蔵して更に所作無きが如し」等云云、 とも引用している。

色々とoriginalには無い文章の涅槃経を使っていた智顗は 華 文字の涅槃経を使用していたのだろう。



この辺で、130か所の引用間違いと 96の引用文ファイルを書き上げたので、 このシリーズを終わりにしようと思う。

題名の90の間違いは、必ずしも90ピッタリではないが、100の間違いとするには気が引けるので、90にした迄で、 とりあえず、日蓮聖人の読んだ経は全てチェックし、 内容もかなりの部分を読みつくした。
多分自分は今の日本では一番経を読んだ一人だろう。  

般若部は シュレジンガーが判らない人は読むだけ無駄だ。 
もっと言えば、 六萬恒河沙の地湧の菩薩達を未だ銀河だとわからない人が経を読んで分かった気になったならば、それは脳の機能に異常を来たした証拠だ。

釈迦の教えを学びたければ、現代の文章で、自然科学を研究する事をお勧めしたい。

先日世界一貧しい大統領と呼ばれたムヒカ氏が来日して、反響を呼んだ。
彼は何年も獄中で情報に飢えていた時に、ようやく本を読むことを許されたが、渡された本は自然科学の品ばかりだった。 それでもむさぼり読んだ結果、悟りを得たかのような人格になったのだそうだ。

ブログに書いたが、経文は 元素(十八不共)や起塵に物質が始まる事を教えている。
釈迦は 自然の科学の法則を 言葉のない時代に、知識のない人に判る方法で語らなければならなかったのだ。

今の言葉で最新の知識を学べる我々が、 何の理由があって経に時間を咲くことがあろうか。  
法華経は 2000年も経てば釈迦の言いたかったことが正しかった事が解る時が来ると留め置くと、そう書いたのだ。

それが判れば、もう現代の最新科学を学べばよいのである。

中華の魔道に染まり、釈迦の仏教は滅びると釈迦自身が書いているのだから。


30 最終回 番外 外経・内経 他 

2017/010/6(改編)  2016/06/30 (公開)

最終回   外経  内経


引用    外経に云く「奸人朝に在れば賢者進まず」云云、 内経に云く「法を壊る者を見て責めざる者は仏法の中の怨なり」云云


書簡    滝泉寺申状  132


奸人在朝,而賢者隱處  とは 中国古典、先秦兩漢 -> 雜家 -> 淮南子の 泰族訓の9 の最後の言葉です。

賢者進まずでは無く、 賢者隱處す ですから、隠居が進まず、と間違って伝わっていたものと思われます。

後半の 内経に曰く とは仏教系を云うもので、

この言葉い相当する者は 涅槃経の 12.0381a11ぺーじ からの:
「見有破戒壞正法者。即應驅遣呵責擧處。若善比丘見壞法者。置不呵責驅遣擧處。當知是人佛法中怨。」 の意を採って省略したものと思われます。

前半は元のマチガイ、 後半は マ・ しょうがない というところです





此処からは間違いではありません。参考のために知っておいた方が良い物を挙げておきます。



雙観経


引用     雙観経に云う不取正覚成仏已来凡歴十劫等の文は未顕真実と承伏せさせ給うか

書簡    顕謗法抄


雙観経とは佛説無量壽經 (0360) と佛説觀無量壽佛經 (No. 0365)の二つの観経の総称である。

報恩抄 に  心ハ摩訶般若波羅蜜經 雙觀經ノ肝心ハ佛説無量壽經 とある。


これは 佛説無量壽經 (No. 0360)
     佛言。成佛已來凡歴十劫其佛國土自然七寶。 云々の言葉と、

     佛説無量壽經 (No. 0361)不取正覺 の言葉の合成である。

引用は全くの誤りとは言えないが、360番と361番の二つの別の経から引いた合成語だ
という事を知っておくと良いかと。 


大雲経

大雲経に云く「諸経の転輪聖王なり」          守護国家論  
大雲経に云く「是の経は即是諸経の転輪聖王なり  開目抄下 

大雲経 の名の謂れは分かりませんが、経文から 大方等無想經 (0387) 曇無讖譯 の事だという事が判ります 

12.1083b09:ページに:  經典當知是經即是諸經轉輪聖王 の言葉が有ります


2016/10/23(改編)

像法決疑経

正式名 仏説像法決疑経 (2870) 偽経 とされている。

引用書簡  蓮盛抄[禅宗問答抄]、 八宗違目抄、 早勝問答、 釈迦一代五時継図、
一代五時継図


大経

引用    第三阿闍世王の事 文句の一に云く 阿闍世王とは未生怨と名く、①
       又云く大経に云く阿闍世とは未生怨と名く②
       又云く大経に云く阿闍を不生と名く③ 世とは怨と名く④。

書簡    御義口伝巻上

いずれも 「文句の一に云く」として引用しているので、文句にその通りあれば日蓮聖人の間違いではない。 しかし、文句が間違っていると思われるので、ここに参考に書き足した。

先ず、 「阿闍世王とは未生怨と名く」だが、これは迦葉菩薩品第十二之二に提婆達多が善見太子をそそのかす、そのやりとりに出て来る会話だ。

だが涅槃経の釈迦の真意は、そのように説かれてはいない。
それは卷第二十の梵行品第八之六をよく読み込めば理解できる筈だ。

T0374_.12.0480ページ、c20~:c25行

以見佛性故。則得安住大般涅槃。
名不生。是故名爲 爲阿闍世。

善男子。阿闍者名不生不生者名涅槃世名世法。 
爲者名不汚。以世八法所不汚故。無無邊阿僧祇劫不入涅槃。
是故我言。爲阿闍世。無量億劫不入涅槃。

釈迦の説は 阿闍者名不生不生者名涅槃。 
阿闍(アジャ)を不生と名づく。 である 
怨みどころか、 不生とは名付けて涅槃だと説いている。

上記のように不生佛性を見ない故だと釈迦はいっている。未生不生は似て非なる言葉で、涅槃経には未生ない

生の怨み とはいったい何処からの発想か。

中華魔道に歪んだ智顗は世法ではなく、怨みを採用したのだが
参考までに 経には 未生怨という言葉は存在する。 

それはアジャセではなくマカダ王に名付けられた言葉だ。 
 
寂照神變三摩地經 (No. 0648 玄奘譯 )15.0725a20: 摩掲陀王名未生怨

③の「又云く大経に云く阿闍を不生と名く」は半分正解

④の 「世とは怨と名く。」 は 馬鹿らしくて話す気にもならない。
もっとよく涅槃経を読めば 「世名世法」 と言っているのだ。

世法=世 だが、どのような根性から「怨み」部分だけを取るのか?  

佛性を見ない者にはその煩悩から怨みを生ずる。そういう者には世界は怨みだ

「又云く大経に云く阿闍世とは未生怨と名く」の元は 釈迦の真意ではなく、提婆達多の唆しの会話である。

私が智顗を馬鹿にするのは、ろくに経を理解せずにに平気でこのようなミスリードを書くからだ。

智顗がたいして経を読んでいない事が分かるが、彼が学んだ参考書もすでに魔道に汚染されていたのだろう。 

支那仏教がそうなる事は 仏説分別経に書かれている

頻婆娑羅王は多くの経にその名が登場し、大集経では仏が直接王に語り掛けている。
だが彼を殺すの殺されるだのの話は、どの経にも存在しない。

これもまた支那で造られた話で、神清の北山録の「提婆達多作謀弑父囚殺頻婆娑羅王」が発生元だ。 

ちゃんと自分の目でオリジナルの経を読んで釈迦の言葉を分別して、それを理解すること。 
自分が常々それをブログに繰り返すのは上記のような事例が多々あるからである。