2019年4月5日金曜日

番外編1 大智度論 色黒きは地獄?

25019/4/5 (公開)


色黒きは地獄?


大論に云く「臨終の時色黒き者は地獄に堕つ」等云云、

これは安国論2 「未顕真実」の撤回 で紹介した「妙法尼御前」への返書中の一文です。
ちなみに「未顕真実」の撤回とは次の文です
「一代の聖教いづれもいづれもをろかなる事は候はず皆我等が親父大聖教主釈尊の金言なり皆真実なり皆実語なり」
詳しくは平成檀林1の立正安国論シリーズをお読みください。

さて 大論に云く「臨終の時色黒き者は地獄に堕つ」ですが 「大論」とは大智度論 の事です。 大正蔵経では第25巻に(No. 1509 龍樹造 鳩摩羅什譯 ) として載っています。
元の100巻を大正蔵は89巻に纏めています。

加えて 天台大師の摩訶止観に云く「身の黒色は地獄の陰に譬う」等云云 と、死相が色黒の者は地獄に落ちているかの如くいっています。

反対に 大論に云く「赤白端正なる者は天上を得る」云云、天台大師御臨終の記に云く色白し、玄奘三蔵御臨終を記して云く色白し、
一代聖教を定むる名目に云く「黒業は六道にとどまり白業は四聖となる」此等の文証と現証をもんてかんがへて候に、此の人は天に生ぜるか」と 死相が白いと天上に行くとしています。

自分は大学時代、黒人を含む米兵に英会話を教わったことがあり、何度か彼らの家庭にも招待された事もあります。 
安国論シリーズを書いていて、この「色黒き者は地獄の相」で地獄に堕ちるなんて絶対に黒人には言えないよなと、笑えない話を仲間達としたことを思い出したので番外編を書きました。

またこのブログでは経文ではない論書の誤りは当然のことと無視していましたが、釈迦はインド人でどちらかと言えば色が黒い筈だし、同じくインド人の龍樹が、「色黒は地獄の相」だなんてホントに書いたんかいと思い、今回大論全巻をチェックしました。

結論はやっぱり大論にはそんな事は書いていません。 

大論には黒という文字は88回しかありません。

大論には墮地獄という言葉が全般的に61回出現しますが、その前後の文章中に黒と絡む文章は有りません。

大智度論釋初品中毘梨耶波羅蜜義第二十七卷 第十六 に誤解を生みそうな文章があります。
地獄とからむ文章に「色界無色界」の事として「黒縄地獄」または「黒繩大地獄」という地獄の名前が出てきます。

「色界無色界亦如是。活地獄中死黒繩地獄中生。黒繩地獄中死 活獄中生。活地獄中死 還生活地獄中。」の文章ですが、
「活地獄」の中で死に、「黒縄地獄」生まれたり、そこで死んでまた「活地獄」に還生する、という話で、色黒だからどうのこうのではありません。

ついでに「赤白端正」という言葉も大論には一度も出てきません。

日蓮聖人は同じ色黒きは地獄を千日尼御前返事にも書いています。

「法雲自在王如来迹に竜猛菩薩初地の大聖の大智度論千巻の肝心に云く」云云と開目抄に書いていますが、大智度論は百巻ですから大論そのものは読んでいないのです。

「色黒き者は地獄」「色白は天上」は、大智度論を読んだことのない人、どうせ読めない人への、悪辣なデマに過ぎないようです。

これも支那汚染仏教の実態なのだと理解してください。


2016年5月26日木曜日

日蓮書簡の経文の誤用 1 初めに

2019/4/4 2017/11/14、01/17、2016/10/23(加筆改編)、08/15(加筆、誤変換訂正)07/25、29、06/19、28(文章調整) 2016/05/26 (公開)

日蓮書簡の引用経文の誤り

始めに


支那、: 其ノ國ノ人、多ク思慮スル所ハ、計詐スル所多シ、故ニ以ッテ名(支那)ト為ス。 即チ今ノ 此ノ漢ノ國、是レ也

これは漢時代に漢人が解説した経文の支那の意味です。(一切經音義)

釈迦は経文で、謀略をめぐらす人々の国(地域)を震旦やシナと言っています。 

釈迦が経文に、魔道に染まると予告した支那仏教ですが、「女人は地獄の使い」だとか、「仏が目の玉を落とすような間違いをおかしたとしても、女人に成仏させるような間違いはおかさない」などと、呆れるばかりのデマを日本に伝えた支那仏教です。
天台の摩訶止観、法華経玄義にもその出鱈目さが見えます。

天台を学んだ日蓮聖人が [末法初めの五百年中(西暦1050年迄)]と, 複数の書簡に限定した「法華経の広宣流布達成期限」でしたが、それは完全な失敗に終わりました。
しかしその論理は最初から破綻していたのです。

日本仏教がいかに支那魔道の捏造経文に翻弄されて来たか、 日蓮書簡の引用にはその具体例がいくつも見うけられます。 

広宣流布迄あと一歩のところで起きた天文の乱で、京を追払われ、以降法華宗の名も使えずにいた処で期限を迎えた法華信仰は、その論理の破綻を目の当たりにしたのです。

躊躇ない捏造書簡・論理矛盾の伝承などが、後五百歳以降の資料に湧き出し、それ等には当然ながらオリジナルの日蓮書簡が存在せず、写本ばかりというその訳は云うまでもない事でしょう。

期限内に広宣流布がならなければ、釈迦多宝は大ウソつきで地獄行きだと迄書いた日蓮ですから、彼は釈迦以上の存在でなければならず、そこで日蓮本仏論の創出となりました。

正義と信じた日蓮法華宗の宗旨破破綻を経験し、其々の生き残りを模索した僧達に、今更正義感を求めても意味はありません。

日蓮何とか宗と、日蓮ブランドを冠した自称日蓮法華宗のもどき宗派の営業が、現在続いている訳を知る事は、歴史や釈迦仏教を正しく学ぶ助けになります。

日蓮の論理が破綻した原因は何処に在るのか。 

「臭いものには蓋」を旨とする現・日蓮宗系にとっては、天文の破綻を総括する事は、即ブランド否定となります。
従って間違いを見つけようともせず、例え見つけてもそれを云う事は絶対的タブーなのです。 

論理破綻の必然性は、その論理の構成基の経論、資料の解釈ミスに在ります。
それは極て当たり前の事です。

自分は日蓮書簡に引用された元文の間違いは何か、その理由迄が支那仏教にあると解ったので、その幾つかをこのブログに明かしてゆく事にしました。


「銀色女経」に対するトンデモ解釈や支那の捏造経での「女性成仏」に関する、あり得ないデマや誤りを、支那からそのまま導入したのが日本の仏教で、今もそれを流布しています。

それを知って自分は数年前に「日蓮書簡の引用経文はどのくらい正確か?」というブログを発表しました。

私自身の経験から、大事なことは人の話を鵜呑みにせず、自分の目でも確認する事とし、それを勧め、その大切さを言いたいのです。
更に「日蓮聖人の誤り このままで良いのか」で追い打ちをかけましたが、決定的な不都合には一切反応せず、小さいブログに過ぎないと無視を貫いています。

他人に勧める以上、自分もより精密に、全ての文をチェックをしておかなければ話にならないと思いますので、当初のブログのために調べた400件程の結果の再確認と、そのアップデートを、自分への宿題にしておき、日蓮が引用した経を全てチェックし終えました。

思い出す徒然に、ダブル、トリプルとチェックをかけて行くうち、次第に大正蔵経の検索ソフトの癖にも慣れ、更には大正蔵経もバージョンアップされています。

自分の検索スキルも上がってか、以前は見つけられなかった経文も、次第に見つけ易くなっています。 蔵経の安国論データに一文字脱字がある事を見つけるほど、精査しました。

それに伴って間違いと記録した案件の幾つかは正解であった事が判ったりで、調査の正確度も上がりました。

日蓮引用経文の調べ始めの対象は、芋づる式に1000ヶ所以上の関連するデータを調査し、500件程を選んでエクセルにファイル記録して、ワークノートとしました。

正否の判定の基本はシンプルで、日蓮書簡に引用された通りの経文が大正蔵経に存在する事。(趣意も含む)

経そのもの、若しくは経文自体が全く存在しなかったり、完全に間違って引用されているものは、当然不正解マークをして、リチェック対象としました。

取意(趣意)と記された引用文は14書簡に17文在ります。 
それ等は、日蓮聖人自身が明確な意識を持って経文を解釈し引用したものです。 

しかしながら取意の断りが無い意訳や経文通りではない文体が書かれている事もあって、戸惑う事が度々ありました。

そのような場合、同じような意味の経文を出来るだけ多く探し出して比較しますが、どうにも解せない経文にない文章には ? マークを付け、ハッキリするまでは不正解としてカウントしています。 

その結果、正解率は数年前に書いた予想より左程良くはならず、間違いもしくは?マークは現在96件残っており、正解率は80%程のままでした。

当初、自分は日蓮書簡の誤りをいちいち公表するつもりはなく、学生ならば自分で調べ、研究するべきだと、ヒントを与えたつもりでした。

日蓮宗関係を研究する方々の多く、ましてや信者にとっては日蓮聖人の誤りを調べる事など恐れ多い事、その躊躇も在ってチェックはされないだろう、という事は容易に想像出来ます。

それにしても自分が平成談林に指摘してから4年程過ぎても、指摘に関してはほぼ無反応で、研究者や宗教関係者の調べに役立ったのかどうかは判りません。

日蓮聖人に誤りがあったからと言って、自分自身はアンチ日蓮にはなっていません。 
日蓮聖人の誤りというより、殆どは引用元が誤っているのですが、その中には故意に捏造された物すらある事が、多くの経文との比較で判って来ます。

実は実、誤りは誤りとして、学術的に知っておく事は、日蓮書簡を理解したいなら絶対に必要です。

彼らが至上と仰いだ筈の法華経の解釈にすら、誤った部分が見えますが、その殆どが支那、天台の影響である事も判ります。

また日蓮が遊学中に、誤りをそのまま聞き学んだと思われる節も多々あります。

例えば、 頻婆娑羅王は多くの経にその名が登場し、大集経では仏が直接王に語り掛けます。
ですが彼を殺す、殺される話はどの経にもありません。
発生元は神清の北山録の「提婆達多作謀弑父囚殺頻婆娑羅王」で、これもまた支那で造られた話です。 

また、法蓮抄と妙一尼御前に出て来る「頻婆舎羅王」の「舎」の表記ですが、経文は全て頻婆娑羅王です。
他にも妙一尼御前の耶輸多羅女は、多羅ではなく陀羅、耶輸陀羅が正解です。
これらは自らの目で経を読んでいたら間違えなかったのではと思います。

同書に {天台摩訶止観に此の経文を釈して云く「譬えば七子の父母平等ならざるには非ず然れども病者に於ては心則ち偏に重きが如し」等云云とこそ仏は答えさせ給いしか、}とあります。

この涅槃経の話はとてもお気に入りなようで、觀心本尊抄、華取要抄 、太田禪門許御書 等に使用しています。 
しかし、摩訶止観にはこの七子の話がない事は、ちゃんと読んでいれば分かる筈です。

支那仏教を耳学問したことによる誤りに翻弄された事は残念ですが、日蓮聖人が法華経の「五五百歳中に広宣流布」を目指した純粋に姿は、仏教史上称賛に価する宗教者の姿であった事は事実ですから、その点への自分の最高評価は変えようがないのです。 

そこで自分は 誤りを見つけた時には真摯にその原因を探し、彼自身の誤りかどうかを確認しようとしました。  
そんな作業はとおに成されていなければならなかった事ですが、魔道に犯された脳には気づかないのでしょう。

華厳経や般若経、法華経、涅槃経など、複数の翻訳があるものは、各バージョンの表現を比較し、使用経典が特定出来た物等々、結果をファイルにノートした500件が今回のシリーズの元です。

現時点での自分の調査の結果は未だ完ぺきとは言いきれませんが、ここに示し置いて、若し自分の調査不足の部分は、ぜひ教えていただきたいものです。 

日蓮書簡の引用に間違いがある事を指摘される事は、今更どうしようもない事でしょうか。

信徒には言う通りに信心していれば良いと強要するカルト宗派が未だ存在していますが、支那魔道の闇の中では、信徒は見る目を失うのでしょう。  

自分の指摘は一つのスポットライトのように、中華魔道の闇の極一部分だけを見せるだけでしょう。

そもそも女性を地獄の使いなどと卑下する多くの捏造経疏の文に出会って、
慈悲深い釈迦がそのような事を本当に言ったのだろうか? 

そういぶかった自分は、既存宗派に属する信仰者ではありませんが、その点では誰よりも釈迦を信じていた者だったようです。
自分はその疑問を払拭したくて、蔵経の元文の調査を始めたわけです。

経文の誤用や捏造経文の使用は、釈迦のオリジナル、仏の心を曲げる行為です。
真の仏教者なら、決して出来る事ではありません。

昔の僧侶達が何故支那仏教をそのまま受け取ったのか、当然自分は考える訳です。

経に当たって直ぐに自分はそれ等が捏造の類だったと分かりましたが、闇に長くいる業界人の目は、深海の生物の眼の様で見えるものが違うのでしょう。 

その輩が仏教を名のり、釈迦の経を利用し、捏造し、末法を理由に自派の開祖より釈迦を格下に置く、そういう宗派の乱立が日本仏教の実体でした。
と言うか、今もそのままです。

この事象が、滅後千年の支那で仏教は魔道に染まると、分別経に示されていた事を知って、自分は釈迦の脳力には呆れるばかりで、経って面白い!と思うようになりました。 


日蓮書簡に戻りますが、富士の堀日亨師は、自派の伝疏書簡にも怪しい部分がある事を観て、怪しい箇所の横に線を引き、偽造箇所と判断した部分には後日解明されることを望むと、二重線を付けて出版しました。

自分はその遺志を尊重して平成檀林2を書いています。 

派租の書簡の経文引用に誤りがある事を確認したなら、その部分は訂正、若しくは不使用とすればよいだけです。

仏教者なら仏教者として、本来の釈迦の教えに随って、「小欲知足」を実践し、如説修行すべきです。
それはどの経文にも書かれている事です。

分別経に示された通りに仏教の心が殆ど滅んで、金欲主義がはびこる21世紀の現在、「小欲知足」の生き方こそが後五百歳にふさわしい仏教の修行となるでしょう。

支那仏教書等を見る事は、人生の時間を無駄に消費して心を穢す事と心得ますので、ここは経文との比較だけに絞リ、経以外でも重要な誤解であれば、番外編を書こうかと思います。

それでは先ず、日蓮聖人なら所持していて間違う筈はないだろうと勝手に思い込んでいた無量義経から始め、 次に、その殆どが法華経と思われる「経にいわく・・・・・」の引用文をチェックした結果を書きます。
実はそこにすら誤があったので、その引用例を示します。 

その後「華厳経にいわく」とか「金光明経にいわく」など、経名指定での引用の誤りについて書き続けようと思います。


では日蓮聖人の論拠の最重要文にして最大の誤りの元凶、「未顕真実」から始めます。

どうやら日蓮聖人は「無量義経」を所持していなかったようなのです。




2 註無量義 に依った為の誤り

2018/07/18(改編)2016/07/28(文章調整) 2016/05/26 (公開)

2  日蓮聖人は無量義経を読んでいなかった


[無量義経]は530行の比較的短い経で、その内容は法華経のエッセンスが書かれたダイジェスト版法華経です。
そのせいか、法華経の開経、(プロローグ)として扱われています。
日蓮書簡にもそのように述べた部分が複数回あります。

日蓮聖人は無量義経の文や経名を100回以上、書簡に使用(引用)しています。

それ迄は日蓮聖人なら法華経の開結「無量義経・普賢経」を当然所持されていただろうからまさか間違いはないだろうと、勝手に思い込んでいました。 

しかし「上行再誕話の言いだしっぺは誰か5」にも書きましたが、「産湯相承」に於ける法華経の品名に誰にでもわかるミスがあった事を思い出し、面倒でも全てのチェックは必要だと思い直しました。

そこで全ての引用部分を最もオリジナルに近い大正蔵経の無量義経の文章と比較した結果です。

(チェックした引用書簡、 
唱法華題目抄、守護国家論、念仏無間地獄抄、真言見聞、行敏訴状御会通、開目抄、報恩抄、下山御消息、十法界事、顕謗法抄、三世諸仏総勘文教相廃立[総勘文抄]、諌暁八幡抄、一代五時図、一代五時鶏図、月水御書、法門申さるべき様の事、教行証御書、六郎恒長御消息、南条兵衛七郎殿御書、薬王品得意抄、神国王御書、上野殿御返事、上野殿母御前御返事、etc)

更には、「前四十余年の経経をば其の門を打ちふさぎ候いぬ (撰時抄①)」とか、
「四十余年の経を捨て (当世念仏者無間地獄事②)」、
或いは 「無量義経に嫌わるる諸経 (顕謗法抄 3)」、
「 経経を未顕真実と悔い返し(善無畏抄④)」
等の書き方で使われています。

無量義経の引用の目的の殆どは、法華経以外の経を用いる諸宗を否定する根拠としての使用です。最も大事な経の筈です。

無量義経からの引用の多くは 「四十余年、未顕真実」、という言葉で、これが日蓮聖人の立論の大基の論拠です。

諸経とは、法華経以前の諸経で、それ等を否定する根拠として、無量義経の「未顕真実」という言葉を最大の拠り所としております。

「四十余年と未顕真実」と2フレーズ1セットの使用に限らず、その読み下し文も含め、上記に挙げた書簡の41か所の引用部分の全てをチェックしました。

「未顕真実」の言葉は誤りである事は 既にブログ「未顕真実」、「日蓮聖人の誤り」や「法華経を考える」、「中華魔道に犯され続ける日本」等に、何度も書いて来ましたので、ここでは書きません

が、 幾度も大正蔵経を読み調べるうちに、果たして日蓮聖人は「未曾顕実」と書かれた無量義経を読みながら、引用には別の表現を用いるだろうか? と思うようになりました。

そして日蓮書簡には大正蔵経の無量義経には使われていない表現が使用されている事がわかったのです。

「未顕真実」以外の無量義経からの引用も、殆どが「他経否定、法華経優位」の説明ですが、その解説中に 
我先道場」 という言葉が 開目抄㊷、一代聖教大意㊸、聖愚問答抄上㊹、当体義抄㊺、小乗大乗分別抄㊻、釈迦一代五時継図㊼、寿量品得意抄㊽、に出て來ます。

「我先に道場菩提樹下に端坐すること六年」と読み下しますが
オリジナルの無量義経の表現は、「我先に」ではなく、「自我道場 菩提樹下 端坐六年」と書かれているのです。

我先道場」の表現は 無量義經 (2193) の 我先道場菩提樹下端坐六年得成阿耨多羅・・・ の表現でした。

他にも 「初に四諦を説き ・・・・次に方等十二部經摩訶般若華嚴海雲を説く」 という文章が「守護国家論㊾」や「開目抄㊿等に多用されているのですが その「華嚴海雲」も 無量義経 の表現で、オリジナルの無量義経は 「華厳海空」 と書かれているのです。

雲 ではなく 空 です。

若し日蓮聖人がオリジナルを所持し、それを使用していたならば、オリジナルの「未曾顕実」を未顕真実にしたり、 自我我先に、にと、わざわざ、無量義経の表現に書き直すとは思えません。

法華玄義 (No. 1716)を見ると、 「無量義云 二道三法四果不合 至法華皆合故不論廢 成道已來四十餘年未顯眞實」と、智顗が書いています。 

実際の経はT0276_.09.0386b07: 其法性者亦復如是。洗除塵勞等無差別。三法四果二道不一
です。
不一 とは一つではないという事で、不合とは意味合いが殆ど反対と言う程違いますし、不合という言葉は無量義経には使われていません。 

また、至法華皆合故不論廢 の文を、四十余年未顕真実 の間に入れていますが、そのような文もまた経文には存在しないのです。

「中華魔道に犯され続ける日本6」 に 未顕真実の捏造を疑って書いておきましたが、無量義経は支那から天台を伝えた伝教大師最澄の書いた物です。
 
という事は、支那天台版の無量義経が大正蔵経所載の物とは違っていた事は確かでしょう。

「日蓮書簡に取り上げられた無量義経」の108ヶの引用を調査をしましたが、「未顕真実」の文に関する箇所は全て X で、それは40ヶ所以上あります。
 
自我道場、海空、の表現は文章への影響は少ないので X の判定をせず ? としました。

ちなみに富士系の法華経開結は天台宗版である事が確認出来ましたが、他は大正蔵経版しか調べていません。

日蓮書簡に在る、無量義経関係の間違い箇所だけでも50ケ所を数えてしまいました。

次回はエピローグ、「普賢経」の文を調べた結果の?に就いて報告します。 

3 普賢経をねじ曲げた摩訶止観

2017/10/07(改編)  2016/07/18(文章調整)07/11、(追記) 2016/05/26(公開)

3   普賢経もねじ曲げた摩訶止観


普賢経は妙法華経の第二十八品、普賢観は結経の事で、別の経です。

法華経の結経とされている、普賢経とは正式には「佛説觀普賢菩薩行法經 (No. 0277)」 です。

妙法蓮華経の最終品で普賢菩薩がやって来て、未来の大乗を行ずる者を護事する事を約したわけですが、

最初の悟りを説いたとされる華厳経は釈迦の言葉で説かれた部分は殆ど無く、多くは普賢菩薩が代弁しています。

普賢経が法華経の最後に置かれている訳は、華厳の悟りを代弁したその普賢に、衆生が会うことが説かれている経だからです。

釈迦の悟りである華厳の舞台に衆生も漸く近づけると理解すれば、釈迦一代の説法が普賢に始まり、普賢に終わる輪になっていることが解ります。
つまり一代の説法の始まり終わりが、一つに繋がって、法輪が完結するのです。

転法輪とは良くぞ言ったもので、釈迦のみならず、過去無量の諸仏達もこのようにしてその生涯は法の輪を転じて来たのだという事で、
無量百千萬 億載阿僧祇 常説法教化 無數億衆生 とはこの事だと理解しましょう。


天台は衆生が普賢に会う事を、「普賢観」での言葉とし、日蓮聖人はその言葉を法華経優位の主な文証に使用していますが、二人は華厳を重要視しませんから、釈迦一台説法を法輪として意識しないようです。

普賢経を引用した書簡は (曾谷二郎入道殿御返事 、守護国家論観心本尊抄、四条金吾釈迦仏供養事、災難対治抄、釈迦一代五時継図、四条金吾殿御返事、一代五時継図、本尊問答抄、女人成仏抄、諌暁八幡抄、四条金吾釈迦仏供養事、千日尼御前御返事)の13書簡で、一書に複数回使用される例もあります。 

自分が実際にチェックヶした所は20か所ほどですが、法華経の一品ですから、経文の引用は全て確かでした。

ですが、 一つ内容にハテナ?と思わされるところがあります。

それは一代五時継図の 「不入三昧」の使い方で、「摩訶止観」の解釈に疑問を感じます。

一代五時継図での引用、 

「普賢経に云く専ら大乗を誦し三昧に入らず文、 又云く其の大乗経典を読誦するもの有らば諸悪永く滅して仏恵より生ずるなり文。」

これは日蓮聖人の趣意(取意)かと思いきや 更に

「止観の二に云く 意の止観とは普賢観に云く 専ら大乗を誦して三昧に入らず日夜六時に六根の罪を懺す」 と書いて、
安楽行品に云く諸法に於て行ずる所無く亦不分別を行ぜざれ文。 法華経に云く乃至余経の一偈をも受けざれ文。 又云く復舎利を安ずることを須いず文。」と
文章全体をすべて否定内容の経文でまとめています。


これは「不入三昧」を三味に入れないとの否定的意味と捉えているのです。

そこで摩訶止觀 (1911) を見ると、0014a1112  

「普賢觀云 專誦大乘 不入三昧 日夜六時 懺六根罪」 

, 上記の引用元と思しき文は確かに書かれています。

しかし、釈迦のオリジナルの経文に「專誦大乘 不入三昧」とは書かれていません。 
それどころか、「日夜六時 懺六根罪」のフレーズも 普賢経のみならず、経文としては存在しないのです。

大正蔵経で「專誦大乘 不入三昧」と入れて検索すれば経には無い事が確かられますから自分の目で確めるべきでしょう。



これでは全く経の趣意とも言えず、自分は恣意的曲解だと断じました。

読むべきは[佛説觀普賢菩薩行法經]の 「阿難 から 一日至三七日。得見普賢」 までの部分です。 
自らの目を信じて、是非ご自分の目でお読みください。

参考までに、呼びかけ部分等は略して 経の主旨を私なりに意訳しますと、

「是の(観)を学べば、その功徳によって、(上妙なる色)を見る事が出来る」 つまり 
「三昧に入らずとも、但大乗を誦持し、心を専らに修習し続けて、一日以上三週間程も、心心共に大乗から離れさえしなければ、普賢を見ることが出来る」 と説かれているのです。

この部分を天台は、 「専修大乗 不入三昧」 と一言にまとめた上で 「日夜六時、つまり四六時中 六根の罪に懺む(くやむ)」 と書き加えているので経の趣意とは真反対にしようと思っているようです。普賢経の続きを読むと、(人によっては一生から三生かかったとしても、大乗によって普賢を見ることが叶う)という内容が続けて説かれています。

それを 「日夜六時 六根の罪に懺む(くやむ)」 と書きかえたのですから、天台は何をかいわんや, 確信犯です。

観普賢経を「普賢観」と呼びながら、その大事な「観」ができないとしてしまった天台智顗の、酷い、自分の知る言葉では言い尽くせない程ヒド過ぎる、悪辣な改竄です。

天台のフレーズは、「大乗ばかりやっても三昧の境地に入る事は出来ず、日夜六根の罪を悔やむばかり という、うがった解釈を誘導します。 

普賢経の「不入三昧」は、三昧に入る事が出来ないのではなく、そこまで行けない者であっても・・の意味で、普賢菩薩に会えるという事を説く流れである事は、経文の前後に明らかなのですが、案の定日蓮聖人は天台の言葉にどっぷりで、経の意味が読めていませんでした。

止観の「専修大乗不入三昧」と、玄義の「四十余年未顕真実」、この二つの改竄が、日蓮聖人生涯の、法華経オンリー思考の大元となっているのです。 


次回からは「法華経にいわく(云、曰く)」と只「経にいわく」との引用文の?を報告を続けます。 
止観等の天台教学の他の誤りに関しては このブログNo. 6、14、15、22項にも解説します。


4 「経に云く」1  女人への偏見

2016/07/11(文章調整) 2016/05/29 (公開)

4  「経に云く」 として引用されたもの 1  平成談林1 から移動しました

日蓮聖人の立論の大元であった法華経の開結、無量義経と普賢経の言葉は双方とも天台の悪解であった事を最初に示しました。

今回は「経に云く」として引用された書簡から107か所を調べた結果、殆どが法華経の引用でしたが、いくつか別の経文もあり、また?もありましたので、順次提示してゆきます。

先ず どの経の文か出所不明の引用です。

引用 A 「経に云く「うえたるよにはよねたつとし」と云云」 54
書簡   上野殿御返事  [時国相応御書]

元文はひらかなだけで書かれていて、読みづらかったので(漢字)を宛ててみますと、
「経に云く「飢えたる世には 米 貴し」と云云」 となります。

この文章を漢文にして蔵経を探しても出て来ませんので ? の評価を付けました。

内容は極当たり前の事ですので、似た意味の文章が経文にいくつも在ります。従って経文通りの表示では無くとも、意味会いとして間違いではありませんのでその例を挙げます。

経文 例:
 
 1 佛説腹使經第二十
   聞如是。一時佛遊舍衞祇樹給孤獨園。與大比丘衆千二百五十人倶。
   爾時其國 米穀踊貴。人民飢餓。 (T0154_.03.0091b09:)  

 2 佛五百弟子自説本起經 (0199) 
 .  時國穀米貴 飢餓大恐懼   (04.0197b24:)

 3 大方等大集經 (0397) 
   穀米貴儉 國土饑荒 (13.0297b04:)

他にも類似の経文は多々在りますが、日蓮聖人が使用出来た経には限りがありますから、十以上の書簡に引用され 3の大方等大集經の文を、アレンジしたものと 推測します。  


 女人への偏見


引用 B 「経に云く「女人は大鬼神なり能く一切の人を喰う」と、」 55

書簡   法華初心成仏抄

ブログに何度も書きましたが、引用の文も「女人成仏」に関る仏教界にはびこる捏造、デマ経文の一つで、完全にアウト! バツXです。

断じて言いますが、この手の内容は経文には存在しません。  釈迦を侮蔑する者の仕業です。

女性を卑下するでっち上げ経文に就いては このブログの 13の銀色女経、そして平成談林1の「女は成仏できないの嘘」シリーズ関係のブログをお読みください。

「世界の原始、宇宙の法則を仏」と説いている釈迦が、「女人は地獄の使い」だの、「人を食らう」だのと言ったゲス好みの言葉を、言う道理がない」 と自分には疑問でした。

それが経文のチェックを始めた大きな動機の一つだったのですが、道元や日蓮は、こういった迷信めいたゲス言葉でも 釈迦が言ったと信じてしまったのですから、仏への理解、信仰心を疑います。

科学の未発達の時代の支那仏教からでは、仏教の何たるかは学びようもないので、理解しえなかった事は仕方のない事ではありましたが。

釈迦自身が過去世に於いて女性であったと、自分の知る限りでは五ツの経に於いて「女性が成仏して釈迦牟尼となる姿」を、わざわざ自身の身に充てて説かれているのです。
(女は成仏できないの嘘 4 釈迦は女だった 参照)

過去の釈迦自身を女性に置き換えて、地獄の使いだったと、謂う筈がないだろうと、少なくとも仏教者ならもっと釈迦を信じて、多くの経を調べてみるべきっだったのですが。 

釈迦はこのような ”馬鹿な事になる”事、つまり仏教さえも支那では魔道に染まってしまう事を、「仏説分別経」に説かれておられます。

当時の科学レベルでは嘱累しきれなかった、宇宙の姿を説いた時に、「汝らは護持する必要がない」、そして「今は留め置く」 と、「神力を以てしても嘱累しきれなかった」と言い、その後に、将来を見通したからこそ、科学が発達する五五百歳になったら弘めよ、と法華経に説いている訳です。 

その真意すらも汲めなかった程度の、中華魔道の解釈の名残が、殆どの現代の日本仏教なのです。



5 「経に云く」2  無明卵

2016/05/30 (公開)

「経に云く」 として引用されたもの 2
 
引用 C  「爰を以て経に云く「一切衆生は無明の卵に処して智慧の口ばしなし、
      仏母の鳥は分段同居の古栖に返りて 無明の卵をたたき破りて一切衆生の鳥をすだてて     法性真如の大虚にとばしむ」 と説けり  取意。 

書簡   新池御書 56


これは趣意としてありますから、日蓮聖人の経文の理解が書かれたものです。
弘安三年二月 五十九歳の書簡ですから、亡くなる二年前です。 本尊曼荼羅のデザインも確定し、思想も完成域に達していた時期の書です。 

経にいわく云々としら引用ですが、どの経のどの部分を元に纏めたのかが判然としません。 もちろん自分の勉強不足もありますが、

その何を問題として取り上げたかですが、 書簡は、「経にいわく」「取意」として、
「衆生を無明の卵に例えて、それを温めて孵化し巣立ちさせる母鳥が仏だ」と言っています。

趣意とは言え、そのようなストーりーを書いた経はありませんので、元になったと思われる部分、「無明卵」 から探す事が出来る筈です。

「無明卵」に就いては大般若波羅蜜多經 (0220)と中阿含經 (No. 0026)に出て來るのみです。
しかしその内容は、日蓮書簡の趣意の内容に結び付くのか、微妙なところです。

その経文は 中阿含經 (No. 0026)の .01.0679c02c~08:ページ当たりで、

入胎。然不如汝言。梵志。我於此衆生無明來。無明樂。無明覆。無明卵之所裹。  
我先觀法。我於衆生爲最第一。 猶鷄生卵。 或十或十二。
隨時念。隨時覆。隨時暖。隨時擁護。 彼於其後。鷄設放逸。
於中有鷄子。或以口嘴。或以足爪。啄破其卵安隱自出。彼於鷄子爲最第一。我亦如是 

とある文章が唯一で、一部の内容が最も近い文章です。


「一切衆生は無明の卵に処して」と部分的には書簡とピッタリの言葉は 「施設論」に見られます。

施設論 (1538) 0519b26ページに:「 一切衆生處無明中住著無明無明卵 障覆慧眼我當破無明卵 」 

智慧の口ばし以降の話にはなりませんが、この表現は書簡の趣意に影響したかも知れません。

しかしながら、「経にいわく」として一文とするには、経文と余り合致しないので、評価は?です。

また 「法性真如の大虚」 の言葉は 大般若波羅蜜多經 (0220) .07.019a05ページの:

有能守護法界 法性眞如 實際不思議界虚空界不。  から出た言葉かと推測します。

此処に挙げた引用の「経にいわく」の前段は、(題目を唱れば 天然と三十二相八十種好を備うるから簡単に釈尊程の仏に成れる) の文で、鳥の卵とそれを孵化する母鳥に例え話を持って來る流れです。 

いずれにしても、経文を端折って部分、部分ピックアップするやり方は何度か出てきます。
中には複数の経の部分々々をまとめたり、端折り過ぎたりがあるので、それらは全て?として今後も示してゆきます。


6 「経にいわく」3 華厳の衆生の作仏

2016/07/11、06/01、(加筆)  2016/05/30 (公開)


6 華厳の衆生の作仏


引用 D 「経に云く「諸法実相」云云、又云く「若人不信乃至入阿鼻獄」云云、
       いかにも御信心をば雪漆のごとくに御もち有るべく候、恐恐」

書簡   "西山殿御返事 [雪漆御書] 建治二年五十五歳   57

この書の問題は 又云く部分が端折り過ぎだという事です。

「若人不信乃至入阿鼻獄」 と在りそう文ですが、同じ文章は実際の経に在りません。

「若人不信」と「入阿鼻獄」は法華経、譬喩品のニ文の間を中略し過ぎの造語です。


0015b22-: 聞不能解 亦勿爲説 若人不信 毀謗此經 則斷一切 世間佛種 或復嚬蹙
而懷疑惑 汝當聽説 此人罪報 若佛在世 若滅度後 其有誹謗 如斯經典 見有讀誦 書持經者 輕賤憎嫉 而懷結恨 此人罪報 汝今復聽 其人命終 入阿鼻獄

意味合いとしては間違いではありませんが、入阿鼻獄 するのは不信 だけではなく、讀誦 書持經者を見て、軽んじたり恨んだりする人が 死後に入阿鼻獄するのです。 

経文の省略造語を「(経に)又いわく 云々」とするのは ??? です。


 

引用 E 「次下の経に云く如来智慧の大薬王樹は唯二所を除きて生長することを得ず
       所謂声聞と縁覚となり等云云 二乗作仏を許さずと云う事分明なり、
      若し爾らば本文は十界互具と見えたれども実には二乗作仏無ければ十界互具を許さざるか、  其の上爾前の経は法華経を以て定む可し 既に除先修習等云云と云う。 
 華厳は二乗作仏無しと云う事分明なり  方等般若も又以て此くの如し。」

書簡   二乗作仏事 58

この長文の引用での問題は、おおきな誤読を含んでいる事です。

この引用文の大元の出所は華厳経と法華経です。 その元の経文を示します。

大方廣佛華嚴經 (0278) .寶王如來性起品 第三十二之三 09.0623b07ページ~ 原文は

「 此藥王樹。一切諸處皆悉生長。唯除二處。 所謂地獄深阬 及 水輪中 不得生長。」
です。

此の薬王樹は 「一切諸處皆悉生長(どこに於いてでも、悉く成長する)」。

「唯除二處。(但し、二か所だけは例外)」で、それが、「所謂 地獄深阬 及 水輪中、(いわゆる地獄の深阬、光の届かない深い地割れの溝の底、と、水輪(滝つぼのようなグルグルと回転する水)の中で、そこでは「不得生長」、成長ができない」 とそのように言って 

「而大藥王樹亦不捨生性。如來智慧大藥王樹 亦復如是。 從一切如來種姓中生。」 
と続きます。

「而大藥王樹亦不捨生性」の意味は 「大藥王樹はその生性を捨てない」
つまり成長できないその二か所にあっても、生き続けているのです。 

そして、「如來の智慧である大藥王樹も、亦復、是のごとしで、一切の如來の種姓に従ってその中に生」、生れると言っているのです。

要は、先に示した二ケ所では成長は出来なくとも、生き続けている」 のです。


これを、日蓮書簡は 「唯二所を除きて 生長することを得ず」 と書いています。 
日本語としては 「二か所だけでしか生長できない、そこ以外では成長しない」 と言うのです。

この文体は、元の経文とは真逆の意味となる誤読での引用となっているので、問題なのです。


それでも 「若し爾らば本文は十界互具と見えたれども」 と一度は経の前後を読んでいながら、教科書の解説は正しいに決まっていると思い込んでいたようです。

理由は 法華玄論 (1720) T1720_.34.0387a04~ が、 「不生の二か所」を声聞・縁覚の二乗に充てて あげくに華厳では二乗は作佛しない、との論を立てているからだと思われます。

以下の文がそれに当たります。

「華嚴云 大藥王樹根不生二處謂深水火坑」  と取り上げ、それ以下は下記のように、華厳経に無い言葉を羅列した解説が続いているからです。
:
「既言二乘不生菩提心。若爾華嚴應未顯實也。 
又華嚴法界品明二乘未入法界。 法華已明入一乘。 然一乘法界是異名耳。
豈可言華嚴未明二乘作佛。故顯實亦未足耶。
問。何故華嚴未明二乘作佛耶
答。華嚴多是初成道時。二乘根縁未熟故 説其未得成佛。」

日蓮聖人の論は全くこの虚偽の解説を鵜呑みにして、依り切っているようにです。 

だから、「所謂声聞と縁覚となり等云云」 と、経に無い事を信じて 「二乗作仏を許さずと云う事分明なり」と言ってしまうのです。

華厳では二乗作佛が出来ない事が分明ならば、やはり法華経だ、と言いたい日蓮書簡は、
従地湧出品から 「除先修習學等云云と云う」をもって来て、「華厳は二乗作仏無し」の文だ と決めつけています。

除先修習學等云云のオリジナルは 「除先修習學小乘」 です、「華厳経」をも小乘に含めるためか 原文の「者」を「等」に置き替えたのです。 

華厳経は 宇宙の始まりから、その成り立ちの法則を説いた経で、釈迦の悟りを最初に説いた法で、理解できる者が殆ど無かったのですが、それを普賢菩薩が理解した言葉で判り易く書かれています。

それだから菩薩の経だと言われるのでしょうが、日蓮聖人も「閻浮提中御書」で
「華厳経と申す経は菩薩のことなり」 と言ってます。

実際は宇宙の組成の法則ですから、人も含めたあらゆる物質の法則が説かれているのですが、天台系はそれが良く理解出来ていない事を、これまでのブログに書いて来ました。 

普賢が良く理解したので、法華経にも普賢が最後に現れます。
結経では悪世に於いてその普賢を観る法が説かれているのです。

その普賢が仏の言葉を理解して偈に解説した言葉ですが、

華厳経、T0279_.10.0265c15~c18:

     譬如世界初成時 先成色界天宮殿    
     次及欲天次人處 乾闥婆宮最後成    
     如來出現亦如是 先起無邊菩薩行    
     次化樂寂諸縁覺 次聲聞後衆生    


ここに、世界(宇宙)が出来上がる順番を説いて、それになぞらえて 無辺の菩薩を行ずる者、
次に諸々の縁覚、次に声聞、その後に衆生を化す(度す)と 謂われた文があります。 

また 華厳経賢首菩薩品第八にも (278-09.0434b28ページ~
    
示現十方如滿月 無量方便化衆生   
於彼十方世界中 念念示現成佛道    
轉正法輪入涅槃 現分舍利爲衆生    
或現聲聞縁覺道 示現成佛普莊嚴
 
と 「無量の衆生を教化し、 或いは聲聞縁覺道を現じ あるいは成仏を現示する」 と在るのを違うバージョンの華厳経を使う天台系では、知るよしもないのでしょうか。

入法界品に縁覚、声聞の文字が出てない事で、華厳経では二乗は作佛しないと、天台系は単純に決めつけましたが、天台系が使っている華厳経でも 他品の文を読めば、

  「獨覺聲聞佛乘道 皆因十善而成就」  (0279) 0187a08ページ:   

独覚の声聞は佛乗の道で、皆十全を因に、而して成就す、

と 声聞が作佛する事が説かれています。  
 
教化衆生の順番は最後に置かれていますから、縁覚・声聞の作佛が終わらないと、順番待ちの衆生は教化されずじまいとなります。 

60巻の華嚴經(278) の賢首菩薩品第八之一には 無量の方便を使って衆生を化す事や、声聞縁覚道を現しての成仏の姿を荘厳に見せて、無量劫の衆生を度す事 が書かれています。 

_09.0434b28~c02 ページ 
   示現十方如滿月 無量方便化衆生   
   於彼十方世界中 念念示現成佛道    
   轉正法輪入涅槃 現分舍利爲衆生    
   或現聲聞縁覺道 示現成佛普莊嚴 
   現無量劫度衆生

この60巻物の華厳経は天台系は使用せず、80巻版を使用していたであろう事の論拠は、後のブログに示します。

大乗、小乗ですが、華厳は大きな悟り全体を一気に説いた経ですから、大きな乗り物、
それを判り易くするために小分して説いた経々を、小さな乗り物に例えたに過ぎない、と釈迦は譬喩品に言っています。

化け物すら授記を受けているのですから、人間が順番待ちのままに留め置かれる訳が在りません。 

ですが、取り上げた引用文は、法華経だけが一番だ、大乗だ、と言いたいが余り、二か所以外で成長するを大薬王樹を 二か所でしか成長できないと、「不得」の文字に捉われた解釈の引用をしています。

華厳経の文が、書簡で「一切諸處皆悉生長」を全て否定する意味の引用文として使われてしまった原因は、法華玄論からの天台への悪影響と、自身、法華経だけが真実との「先入観」に捉われ過ぎた結果、経を読みながらも、中華魔道の解説に負けてしまった、その事が判る例です。


先に「普賢経をねじ曲げた摩訶止観」を書きましたが、日蓮聖人の思考の原点である天台教学を科学の発達した今の時代にも、鵜呑みにしたままの宗教学を続けてはダメなのだという事を、そろそろ知るべきです。