2016年5月26日木曜日

6 「経にいわく」3 華厳の衆生の作仏

2016/07/11、06/01、(加筆)  2016/05/30 (公開)


6 華厳の衆生の作仏


引用 D 「経に云く「諸法実相」云云、又云く「若人不信乃至入阿鼻獄」云云、
       いかにも御信心をば雪漆のごとくに御もち有るべく候、恐恐」

書簡   "西山殿御返事 [雪漆御書] 建治二年五十五歳   57

この書の問題は 又云く部分が端折り過ぎだという事です。

「若人不信乃至入阿鼻獄」 と在りそう文ですが、同じ文章は実際の経に在りません。

「若人不信」と「入阿鼻獄」は法華経、譬喩品のニ文の間を中略し過ぎの造語です。


0015b22-: 聞不能解 亦勿爲説 若人不信 毀謗此經 則斷一切 世間佛種 或復嚬蹙
而懷疑惑 汝當聽説 此人罪報 若佛在世 若滅度後 其有誹謗 如斯經典 見有讀誦 書持經者 輕賤憎嫉 而懷結恨 此人罪報 汝今復聽 其人命終 入阿鼻獄

意味合いとしては間違いではありませんが、入阿鼻獄 するのは不信 だけではなく、讀誦 書持經者を見て、軽んじたり恨んだりする人が 死後に入阿鼻獄するのです。 

経文の省略造語を「(経に)又いわく 云々」とするのは ??? です。


 

引用 E 「次下の経に云く如来智慧の大薬王樹は唯二所を除きて生長することを得ず
       所謂声聞と縁覚となり等云云 二乗作仏を許さずと云う事分明なり、
      若し爾らば本文は十界互具と見えたれども実には二乗作仏無ければ十界互具を許さざるか、  其の上爾前の経は法華経を以て定む可し 既に除先修習等云云と云う。 
 華厳は二乗作仏無しと云う事分明なり  方等般若も又以て此くの如し。」

書簡   二乗作仏事 58

この長文の引用での問題は、おおきな誤読を含んでいる事です。

この引用文の大元の出所は華厳経と法華経です。 その元の経文を示します。

大方廣佛華嚴經 (0278) .寶王如來性起品 第三十二之三 09.0623b07ページ~ 原文は

「 此藥王樹。一切諸處皆悉生長。唯除二處。 所謂地獄深阬 及 水輪中 不得生長。」
です。

此の薬王樹は 「一切諸處皆悉生長(どこに於いてでも、悉く成長する)」。

「唯除二處。(但し、二か所だけは例外)」で、それが、「所謂 地獄深阬 及 水輪中、(いわゆる地獄の深阬、光の届かない深い地割れの溝の底、と、水輪(滝つぼのようなグルグルと回転する水)の中で、そこでは「不得生長」、成長ができない」 とそのように言って 

「而大藥王樹亦不捨生性。如來智慧大藥王樹 亦復如是。 從一切如來種姓中生。」 
と続きます。

「而大藥王樹亦不捨生性」の意味は 「大藥王樹はその生性を捨てない」
つまり成長できないその二か所にあっても、生き続けているのです。 

そして、「如來の智慧である大藥王樹も、亦復、是のごとしで、一切の如來の種姓に従ってその中に生」、生れると言っているのです。

要は、先に示した二ケ所では成長は出来なくとも、生き続けている」 のです。


これを、日蓮書簡は 「唯二所を除きて 生長することを得ず」 と書いています。 
日本語としては 「二か所だけでしか生長できない、そこ以外では成長しない」 と言うのです。

この文体は、元の経文とは真逆の意味となる誤読での引用となっているので、問題なのです。


それでも 「若し爾らば本文は十界互具と見えたれども」 と一度は経の前後を読んでいながら、教科書の解説は正しいに決まっていると思い込んでいたようです。

理由は 法華玄論 (1720) T1720_.34.0387a04~ が、 「不生の二か所」を声聞・縁覚の二乗に充てて あげくに華厳では二乗は作佛しない、との論を立てているからだと思われます。

以下の文がそれに当たります。

「華嚴云 大藥王樹根不生二處謂深水火坑」  と取り上げ、それ以下は下記のように、華厳経に無い言葉を羅列した解説が続いているからです。
:
「既言二乘不生菩提心。若爾華嚴應未顯實也。 
又華嚴法界品明二乘未入法界。 法華已明入一乘。 然一乘法界是異名耳。
豈可言華嚴未明二乘作佛。故顯實亦未足耶。
問。何故華嚴未明二乘作佛耶
答。華嚴多是初成道時。二乘根縁未熟故 説其未得成佛。」

日蓮聖人の論は全くこの虚偽の解説を鵜呑みにして、依り切っているようにです。 

だから、「所謂声聞と縁覚となり等云云」 と、経に無い事を信じて 「二乗作仏を許さずと云う事分明なり」と言ってしまうのです。

華厳では二乗作佛が出来ない事が分明ならば、やはり法華経だ、と言いたい日蓮書簡は、
従地湧出品から 「除先修習學等云云と云う」をもって来て、「華厳は二乗作仏無し」の文だ と決めつけています。

除先修習學等云云のオリジナルは 「除先修習學小乘」 です、「華厳経」をも小乘に含めるためか 原文の「者」を「等」に置き替えたのです。 

華厳経は 宇宙の始まりから、その成り立ちの法則を説いた経で、釈迦の悟りを最初に説いた法で、理解できる者が殆ど無かったのですが、それを普賢菩薩が理解した言葉で判り易く書かれています。

それだから菩薩の経だと言われるのでしょうが、日蓮聖人も「閻浮提中御書」で
「華厳経と申す経は菩薩のことなり」 と言ってます。

実際は宇宙の組成の法則ですから、人も含めたあらゆる物質の法則が説かれているのですが、天台系はそれが良く理解出来ていない事を、これまでのブログに書いて来ました。 

普賢が良く理解したので、法華経にも普賢が最後に現れます。
結経では悪世に於いてその普賢を観る法が説かれているのです。

その普賢が仏の言葉を理解して偈に解説した言葉ですが、

華厳経、T0279_.10.0265c15~c18:

     譬如世界初成時 先成色界天宮殿    
     次及欲天次人處 乾闥婆宮最後成    
     如來出現亦如是 先起無邊菩薩行    
     次化樂寂諸縁覺 次聲聞後衆生    


ここに、世界(宇宙)が出来上がる順番を説いて、それになぞらえて 無辺の菩薩を行ずる者、
次に諸々の縁覚、次に声聞、その後に衆生を化す(度す)と 謂われた文があります。 

また 華厳経賢首菩薩品第八にも (278-09.0434b28ページ~
    
示現十方如滿月 無量方便化衆生   
於彼十方世界中 念念示現成佛道    
轉正法輪入涅槃 現分舍利爲衆生    
或現聲聞縁覺道 示現成佛普莊嚴
 
と 「無量の衆生を教化し、 或いは聲聞縁覺道を現じ あるいは成仏を現示する」 と在るのを違うバージョンの華厳経を使う天台系では、知るよしもないのでしょうか。

入法界品に縁覚、声聞の文字が出てない事で、華厳経では二乗は作佛しないと、天台系は単純に決めつけましたが、天台系が使っている華厳経でも 他品の文を読めば、

  「獨覺聲聞佛乘道 皆因十善而成就」  (0279) 0187a08ページ:   

独覚の声聞は佛乗の道で、皆十全を因に、而して成就す、

と 声聞が作佛する事が説かれています。  
 
教化衆生の順番は最後に置かれていますから、縁覚・声聞の作佛が終わらないと、順番待ちの衆生は教化されずじまいとなります。 

60巻の華嚴經(278) の賢首菩薩品第八之一には 無量の方便を使って衆生を化す事や、声聞縁覚道を現しての成仏の姿を荘厳に見せて、無量劫の衆生を度す事 が書かれています。 

_09.0434b28~c02 ページ 
   示現十方如滿月 無量方便化衆生   
   於彼十方世界中 念念示現成佛道    
   轉正法輪入涅槃 現分舍利爲衆生    
   或現聲聞縁覺道 示現成佛普莊嚴 
   現無量劫度衆生

この60巻物の華厳経は天台系は使用せず、80巻版を使用していたであろう事の論拠は、後のブログに示します。

大乗、小乗ですが、華厳は大きな悟り全体を一気に説いた経ですから、大きな乗り物、
それを判り易くするために小分して説いた経々を、小さな乗り物に例えたに過ぎない、と釈迦は譬喩品に言っています。

化け物すら授記を受けているのですから、人間が順番待ちのままに留め置かれる訳が在りません。 

ですが、取り上げた引用文は、法華経だけが一番だ、大乗だ、と言いたいが余り、二か所以外で成長するを大薬王樹を 二か所でしか成長できないと、「不得」の文字に捉われた解釈の引用をしています。

華厳経の文が、書簡で「一切諸處皆悉生長」を全て否定する意味の引用文として使われてしまった原因は、法華玄論からの天台への悪影響と、自身、法華経だけが真実との「先入観」に捉われ過ぎた結果、経を読みながらも、中華魔道の解説に負けてしまった、その事が判る例です。


先に「普賢経をねじ曲げた摩訶止観」を書きましたが、日蓮聖人の思考の原点である天台教学を科学の発達した今の時代にも、鵜呑みにしたままの宗教学を続けてはダメなのだという事を、そろそろ知るべきです。


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