3 普賢経もねじ曲げた摩訶止観
普賢経は妙法華経の第二十八品、普賢観は結経の事で、別の経です。
法華経の結経とされている、普賢経とは正式には「佛説觀普賢菩薩行法經 (No. 0277)」 です。
妙法蓮華経の最終品で普賢菩薩がやって来て、未来の大乗を行ずる者を護事する事を約したわけですが、
最初の悟りを説いたとされる華厳経は釈迦の言葉で説かれた部分は殆ど無く、多くは普賢菩薩が代弁しています。
普賢経が法華経の最後に置かれている訳は、華厳の悟りを代弁したその普賢に、衆生が会うことが説かれている経だからです。
釈迦の悟りである華厳の舞台に衆生も漸く近づけると理解すれば、釈迦一代の説法が普賢に始まり、普賢に終わる輪になっていることが解ります。
つまり一代の説法の始まり終わりが、一つに繋がって、法輪が完結するのです。
転法輪とは良くぞ言ったもので、釈迦のみならず、過去無量の諸仏達もこのようにしてその生涯は法の輪を転じて来たのだという事で、
無量百千萬 億載阿僧祇 常説法教化 無數億衆生 とはこの事だと理解しましょう。
無量百千萬 億載阿僧祇 常説法教化 無數億衆生 とはこの事だと理解しましょう。
天台は衆生が普賢に会う事を、「普賢観」での言葉とし、日蓮聖人はその言葉を法華経優位の主な文証に使用していますが、二人は華厳を重要視しませんから、釈迦一台説法を法輪として意識しないようです。
普賢経を引用した書簡は (曾谷二郎入道殿御返事 、守護国家論観心本尊抄、四条金吾釈迦仏供養事、災難対治抄、釈迦一代五時継図、四条金吾殿御返事、一代五時継図、本尊問答抄、女人成仏抄、諌暁八幡抄、四条金吾釈迦仏供養事、千日尼御前御返事)の13書簡で、一書に複数回使用される例もあります。
自分が実際にチェックヶした所は20か所ほどですが、法華経の一品ですから、経文の引用は全て確かでした。
ですが、 一つ内容にハテナ?と思わされるところがあります。
それは一代五時継図の 「不入三昧」の使い方で、「摩訶止観」の解釈に疑問を感じます。
一代五時継図での引用、
「普賢経に云く専ら大乗を誦し三昧に入らず文、 又云く其の大乗経典を読誦するもの有らば諸悪永く滅して仏恵より生ずるなり文。」
これは日蓮聖人の趣意(取意)かと思いきや 更に
「止観の二に云く 意の止観とは普賢観に云く 専ら大乗を誦して三昧に入らず日夜六時に六根の罪を懺す」 と書いて、
「安楽行品に云く諸法に於て行ずる所無く亦不分別を行ぜざれ文。 法華経に云く乃至余経の一偈をも受けざれ文。 又云く復舎利を安ずることを須いず文。」と
文章全体をすべて否定内容の経文でまとめています。
これは「不入三昧」を三味に入れないとの否定的意味と捉えているのです。
そこで摩訶止觀 (1911) を見ると、0014a11~12 に
「普賢觀云 專誦大乘 不入三昧 日夜六時 懺六根罪」
と, 上記の引用元と思しき文は確かに書かれています。
しかし、釈迦のオリジナルの経文に「專誦大乘 不入三昧」とは書かれていません。
それどころか、「日夜六時 懺六根罪」のフレーズも 普賢経のみならず、経文としては存在しないのです。
大正蔵経で「專誦大乘 不入三昧」と入れて検索すれば経には無い事が確かられますから自分の目で確めるべきでしょう。
これでは全く経の趣意とも言えず、自分は恣意的曲解だと断じました。
読むべきは[佛説觀普賢菩薩行法經]の 「阿難 から 一日至三七日。得見普賢」 までの部分です。
自らの目を信じて、是非ご自分の目でお読みください。
参考までに、呼びかけ部分等は略して 経の主旨を私なりに意訳しますと、
「是の(観)を学べば、その功徳によって、(上妙なる色)を見る事が出来る」 つまり
「三昧に入らずとも、但大乗を誦持し、心を専らに修習し続けて、一日以上三週間程も、心心共に大乗から離れさえしなければ、普賢を見ることが出来る」 と説かれているのです。
この部分を天台は、 「専修大乗 不入三昧」 と一言にまとめた上で 「日夜六時、つまり四六時中 六根の罪に懺む(くやむ)」 と書き加えているので経の趣意とは真反対にしようと思っているようです。普賢経の続きを読むと、(人によっては一生から三生かかったとしても、大乗によって普賢を見ることが叶う)という内容が続けて説かれています。
それを 「日夜六時 六根の罪に懺む(くやむ)」 と書きかえたのですから、天台は何をかいわんや, 確信犯です。
観普賢経を「普賢観」と呼びながら、その大事な「観」ができないとしてしまった天台智顗の、酷い、自分の知る言葉では言い尽くせない程ヒド過ぎる、悪辣な改竄です。
天台のフレーズは、「大乗ばかりやっても三昧の境地に入る事は出来ず、日夜六根の罪を悔やむばかり という、うがった解釈を誘導します。
普賢経の「不入三昧」は、三昧に入る事が出来ないのではなく、そこまで行けない者であっても・・の意味で、普賢菩薩に会えるという事を説く流れである事は、経文の前後に明らかなのですが、案の定日蓮聖人は天台の言葉にどっぷりで、経の意味が読めていませんでした。
止観の「専修大乗不入三昧」と、玄義の「四十余年未顕真実」、この二つの改竄が、日蓮聖人生涯の、法華経オンリー思考の大元となっているのです。
次回からは「法華経にいわく(云、曰く)」と只「経にいわく」との引用文の?を報告を続けます。
止観等の天台教学の他の誤りに関しては このブログNo. 6、14、15、22項にも解説します。
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