2016年5月26日木曜日

日蓮書簡の経文の誤用 1 初めに

2019/4/4 2017/11/14、01/17、2016/10/23(加筆改編)、08/15(加筆、誤変換訂正)07/25、29、06/19、28(文章調整) 2016/05/26 (公開)

日蓮書簡の引用経文の誤り

始めに


支那、: 其ノ國ノ人、多ク思慮スル所ハ、計詐スル所多シ、故ニ以ッテ名(支那)ト為ス。 即チ今ノ 此ノ漢ノ國、是レ也

これは漢時代に漢人が解説した経文の支那の意味です。(一切經音義)

釈迦は経文で、謀略をめぐらす人々の国(地域)を震旦やシナと言っています。 

釈迦が経文に、魔道に染まると予告した支那仏教ですが、「女人は地獄の使い」だとか、「仏が目の玉を落とすような間違いをおかしたとしても、女人に成仏させるような間違いはおかさない」などと、呆れるばかりのデマを日本に伝えた支那仏教です。
天台の摩訶止観、法華経玄義にもその出鱈目さが見えます。

天台を学んだ日蓮聖人が [末法初めの五百年中(西暦1050年迄)]と, 複数の書簡に限定した「法華経の広宣流布達成期限」でしたが、それは完全な失敗に終わりました。
しかしその論理は最初から破綻していたのです。

日本仏教がいかに支那魔道の捏造経文に翻弄されて来たか、 日蓮書簡の引用にはその具体例がいくつも見うけられます。 

広宣流布迄あと一歩のところで起きた天文の乱で、京を追払われ、以降法華宗の名も使えずにいた処で期限を迎えた法華信仰は、その論理の破綻を目の当たりにしたのです。

躊躇ない捏造書簡・論理矛盾の伝承などが、後五百歳以降の資料に湧き出し、それ等には当然ながらオリジナルの日蓮書簡が存在せず、写本ばかりというその訳は云うまでもない事でしょう。

期限内に広宣流布がならなければ、釈迦多宝は大ウソつきで地獄行きだと迄書いた日蓮ですから、彼は釈迦以上の存在でなければならず、そこで日蓮本仏論の創出となりました。

正義と信じた日蓮法華宗の宗旨破破綻を経験し、其々の生き残りを模索した僧達に、今更正義感を求めても意味はありません。

日蓮何とか宗と、日蓮ブランドを冠した自称日蓮法華宗のもどき宗派の営業が、現在続いている訳を知る事は、歴史や釈迦仏教を正しく学ぶ助けになります。

日蓮の論理が破綻した原因は何処に在るのか。 

「臭いものには蓋」を旨とする現・日蓮宗系にとっては、天文の破綻を総括する事は、即ブランド否定となります。
従って間違いを見つけようともせず、例え見つけてもそれを云う事は絶対的タブーなのです。 

論理破綻の必然性は、その論理の構成基の経論、資料の解釈ミスに在ります。
それは極て当たり前の事です。

自分は日蓮書簡に引用された元文の間違いは何か、その理由迄が支那仏教にあると解ったので、その幾つかをこのブログに明かしてゆく事にしました。


「銀色女経」に対するトンデモ解釈や支那の捏造経での「女性成仏」に関する、あり得ないデマや誤りを、支那からそのまま導入したのが日本の仏教で、今もそれを流布しています。

それを知って自分は数年前に「日蓮書簡の引用経文はどのくらい正確か?」というブログを発表しました。

私自身の経験から、大事なことは人の話を鵜呑みにせず、自分の目でも確認する事とし、それを勧め、その大切さを言いたいのです。
更に「日蓮聖人の誤り このままで良いのか」で追い打ちをかけましたが、決定的な不都合には一切反応せず、小さいブログに過ぎないと無視を貫いています。

他人に勧める以上、自分もより精密に、全ての文をチェックをしておかなければ話にならないと思いますので、当初のブログのために調べた400件程の結果の再確認と、そのアップデートを、自分への宿題にしておき、日蓮が引用した経を全てチェックし終えました。

思い出す徒然に、ダブル、トリプルとチェックをかけて行くうち、次第に大正蔵経の検索ソフトの癖にも慣れ、更には大正蔵経もバージョンアップされています。

自分の検索スキルも上がってか、以前は見つけられなかった経文も、次第に見つけ易くなっています。 蔵経の安国論データに一文字脱字がある事を見つけるほど、精査しました。

それに伴って間違いと記録した案件の幾つかは正解であった事が判ったりで、調査の正確度も上がりました。

日蓮引用経文の調べ始めの対象は、芋づる式に1000ヶ所以上の関連するデータを調査し、500件程を選んでエクセルにファイル記録して、ワークノートとしました。

正否の判定の基本はシンプルで、日蓮書簡に引用された通りの経文が大正蔵経に存在する事。(趣意も含む)

経そのもの、若しくは経文自体が全く存在しなかったり、完全に間違って引用されているものは、当然不正解マークをして、リチェック対象としました。

取意(趣意)と記された引用文は14書簡に17文在ります。 
それ等は、日蓮聖人自身が明確な意識を持って経文を解釈し引用したものです。 

しかしながら取意の断りが無い意訳や経文通りではない文体が書かれている事もあって、戸惑う事が度々ありました。

そのような場合、同じような意味の経文を出来るだけ多く探し出して比較しますが、どうにも解せない経文にない文章には ? マークを付け、ハッキリするまでは不正解としてカウントしています。 

その結果、正解率は数年前に書いた予想より左程良くはならず、間違いもしくは?マークは現在96件残っており、正解率は80%程のままでした。

当初、自分は日蓮書簡の誤りをいちいち公表するつもりはなく、学生ならば自分で調べ、研究するべきだと、ヒントを与えたつもりでした。

日蓮宗関係を研究する方々の多く、ましてや信者にとっては日蓮聖人の誤りを調べる事など恐れ多い事、その躊躇も在ってチェックはされないだろう、という事は容易に想像出来ます。

それにしても自分が平成談林に指摘してから4年程過ぎても、指摘に関してはほぼ無反応で、研究者や宗教関係者の調べに役立ったのかどうかは判りません。

日蓮聖人に誤りがあったからと言って、自分自身はアンチ日蓮にはなっていません。 
日蓮聖人の誤りというより、殆どは引用元が誤っているのですが、その中には故意に捏造された物すらある事が、多くの経文との比較で判って来ます。

実は実、誤りは誤りとして、学術的に知っておく事は、日蓮書簡を理解したいなら絶対に必要です。

彼らが至上と仰いだ筈の法華経の解釈にすら、誤った部分が見えますが、その殆どが支那、天台の影響である事も判ります。

また日蓮が遊学中に、誤りをそのまま聞き学んだと思われる節も多々あります。

例えば、 頻婆娑羅王は多くの経にその名が登場し、大集経では仏が直接王に語り掛けます。
ですが彼を殺す、殺される話はどの経にもありません。
発生元は神清の北山録の「提婆達多作謀弑父囚殺頻婆娑羅王」で、これもまた支那で造られた話です。 

また、法蓮抄と妙一尼御前に出て来る「頻婆舎羅王」の「舎」の表記ですが、経文は全て頻婆娑羅王です。
他にも妙一尼御前の耶輸多羅女は、多羅ではなく陀羅、耶輸陀羅が正解です。
これらは自らの目で経を読んでいたら間違えなかったのではと思います。

同書に {天台摩訶止観に此の経文を釈して云く「譬えば七子の父母平等ならざるには非ず然れども病者に於ては心則ち偏に重きが如し」等云云とこそ仏は答えさせ給いしか、}とあります。

この涅槃経の話はとてもお気に入りなようで、觀心本尊抄、華取要抄 、太田禪門許御書 等に使用しています。 
しかし、摩訶止観にはこの七子の話がない事は、ちゃんと読んでいれば分かる筈です。

支那仏教を耳学問したことによる誤りに翻弄された事は残念ですが、日蓮聖人が法華経の「五五百歳中に広宣流布」を目指した純粋に姿は、仏教史上称賛に価する宗教者の姿であった事は事実ですから、その点への自分の最高評価は変えようがないのです。 

そこで自分は 誤りを見つけた時には真摯にその原因を探し、彼自身の誤りかどうかを確認しようとしました。  
そんな作業はとおに成されていなければならなかった事ですが、魔道に犯された脳には気づかないのでしょう。

華厳経や般若経、法華経、涅槃経など、複数の翻訳があるものは、各バージョンの表現を比較し、使用経典が特定出来た物等々、結果をファイルにノートした500件が今回のシリーズの元です。

現時点での自分の調査の結果は未だ完ぺきとは言いきれませんが、ここに示し置いて、若し自分の調査不足の部分は、ぜひ教えていただきたいものです。 

日蓮書簡の引用に間違いがある事を指摘される事は、今更どうしようもない事でしょうか。

信徒には言う通りに信心していれば良いと強要するカルト宗派が未だ存在していますが、支那魔道の闇の中では、信徒は見る目を失うのでしょう。  

自分の指摘は一つのスポットライトのように、中華魔道の闇の極一部分だけを見せるだけでしょう。

そもそも女性を地獄の使いなどと卑下する多くの捏造経疏の文に出会って、
慈悲深い釈迦がそのような事を本当に言ったのだろうか? 

そういぶかった自分は、既存宗派に属する信仰者ではありませんが、その点では誰よりも釈迦を信じていた者だったようです。
自分はその疑問を払拭したくて、蔵経の元文の調査を始めたわけです。

経文の誤用や捏造経文の使用は、釈迦のオリジナル、仏の心を曲げる行為です。
真の仏教者なら、決して出来る事ではありません。

昔の僧侶達が何故支那仏教をそのまま受け取ったのか、当然自分は考える訳です。

経に当たって直ぐに自分はそれ等が捏造の類だったと分かりましたが、闇に長くいる業界人の目は、深海の生物の眼の様で見えるものが違うのでしょう。 

その輩が仏教を名のり、釈迦の経を利用し、捏造し、末法を理由に自派の開祖より釈迦を格下に置く、そういう宗派の乱立が日本仏教の実体でした。
と言うか、今もそのままです。

この事象が、滅後千年の支那で仏教は魔道に染まると、分別経に示されていた事を知って、自分は釈迦の脳力には呆れるばかりで、経って面白い!と思うようになりました。 


日蓮書簡に戻りますが、富士の堀日亨師は、自派の伝疏書簡にも怪しい部分がある事を観て、怪しい箇所の横に線を引き、偽造箇所と判断した部分には後日解明されることを望むと、二重線を付けて出版しました。

自分はその遺志を尊重して平成檀林2を書いています。 

派租の書簡の経文引用に誤りがある事を確認したなら、その部分は訂正、若しくは不使用とすればよいだけです。

仏教者なら仏教者として、本来の釈迦の教えに随って、「小欲知足」を実践し、如説修行すべきです。
それはどの経文にも書かれている事です。

分別経に示された通りに仏教の心が殆ど滅んで、金欲主義がはびこる21世紀の現在、「小欲知足」の生き方こそが後五百歳にふさわしい仏教の修行となるでしょう。

支那仏教書等を見る事は、人生の時間を無駄に消費して心を穢す事と心得ますので、ここは経文との比較だけに絞リ、経以外でも重要な誤解であれば、番外編を書こうかと思います。

それでは先ず、日蓮聖人なら所持していて間違う筈はないだろうと勝手に思い込んでいた無量義経から始め、 次に、その殆どが法華経と思われる「経にいわく・・・・・」の引用文をチェックした結果を書きます。
実はそこにすら誤があったので、その引用例を示します。 

その後「華厳経にいわく」とか「金光明経にいわく」など、経名指定での引用の誤りについて書き続けようと思います。


では日蓮聖人の論拠の最重要文にして最大の誤りの元凶、「未顕真実」から始めます。

どうやら日蓮聖人は「無量義経」を所持していなかったようなのです。




2 註無量義 に依った為の誤り

2018/07/18(改編)2016/07/28(文章調整) 2016/05/26 (公開)

2  日蓮聖人は無量義経を読んでいなかった


[無量義経]は530行の比較的短い経で、その内容は法華経のエッセンスが書かれたダイジェスト版法華経です。
そのせいか、法華経の開経、(プロローグ)として扱われています。
日蓮書簡にもそのように述べた部分が複数回あります。

日蓮聖人は無量義経の文や経名を100回以上、書簡に使用(引用)しています。

それ迄は日蓮聖人なら法華経の開結「無量義経・普賢経」を当然所持されていただろうからまさか間違いはないだろうと、勝手に思い込んでいました。 

しかし「上行再誕話の言いだしっぺは誰か5」にも書きましたが、「産湯相承」に於ける法華経の品名に誰にでもわかるミスがあった事を思い出し、面倒でも全てのチェックは必要だと思い直しました。

そこで全ての引用部分を最もオリジナルに近い大正蔵経の無量義経の文章と比較した結果です。

(チェックした引用書簡、 
唱法華題目抄、守護国家論、念仏無間地獄抄、真言見聞、行敏訴状御会通、開目抄、報恩抄、下山御消息、十法界事、顕謗法抄、三世諸仏総勘文教相廃立[総勘文抄]、諌暁八幡抄、一代五時図、一代五時鶏図、月水御書、法門申さるべき様の事、教行証御書、六郎恒長御消息、南条兵衛七郎殿御書、薬王品得意抄、神国王御書、上野殿御返事、上野殿母御前御返事、etc)

更には、「前四十余年の経経をば其の門を打ちふさぎ候いぬ (撰時抄①)」とか、
「四十余年の経を捨て (当世念仏者無間地獄事②)」、
或いは 「無量義経に嫌わるる諸経 (顕謗法抄 3)」、
「 経経を未顕真実と悔い返し(善無畏抄④)」
等の書き方で使われています。

無量義経の引用の目的の殆どは、法華経以外の経を用いる諸宗を否定する根拠としての使用です。最も大事な経の筈です。

無量義経からの引用の多くは 「四十余年、未顕真実」、という言葉で、これが日蓮聖人の立論の大基の論拠です。

諸経とは、法華経以前の諸経で、それ等を否定する根拠として、無量義経の「未顕真実」という言葉を最大の拠り所としております。

「四十余年と未顕真実」と2フレーズ1セットの使用に限らず、その読み下し文も含め、上記に挙げた書簡の41か所の引用部分の全てをチェックしました。

「未顕真実」の言葉は誤りである事は 既にブログ「未顕真実」、「日蓮聖人の誤り」や「法華経を考える」、「中華魔道に犯され続ける日本」等に、何度も書いて来ましたので、ここでは書きません

が、 幾度も大正蔵経を読み調べるうちに、果たして日蓮聖人は「未曾顕実」と書かれた無量義経を読みながら、引用には別の表現を用いるだろうか? と思うようになりました。

そして日蓮書簡には大正蔵経の無量義経には使われていない表現が使用されている事がわかったのです。

「未顕真実」以外の無量義経からの引用も、殆どが「他経否定、法華経優位」の説明ですが、その解説中に 
我先道場」 という言葉が 開目抄㊷、一代聖教大意㊸、聖愚問答抄上㊹、当体義抄㊺、小乗大乗分別抄㊻、釈迦一代五時継図㊼、寿量品得意抄㊽、に出て來ます。

「我先に道場菩提樹下に端坐すること六年」と読み下しますが
オリジナルの無量義経の表現は、「我先に」ではなく、「自我道場 菩提樹下 端坐六年」と書かれているのです。

我先道場」の表現は 無量義經 (2193) の 我先道場菩提樹下端坐六年得成阿耨多羅・・・ の表現でした。

他にも 「初に四諦を説き ・・・・次に方等十二部經摩訶般若華嚴海雲を説く」 という文章が「守護国家論㊾」や「開目抄㊿等に多用されているのですが その「華嚴海雲」も 無量義経 の表現で、オリジナルの無量義経は 「華厳海空」 と書かれているのです。

雲 ではなく 空 です。

若し日蓮聖人がオリジナルを所持し、それを使用していたならば、オリジナルの「未曾顕実」を未顕真実にしたり、 自我我先に、にと、わざわざ、無量義経の表現に書き直すとは思えません。

法華玄義 (No. 1716)を見ると、 「無量義云 二道三法四果不合 至法華皆合故不論廢 成道已來四十餘年未顯眞實」と、智顗が書いています。 

実際の経はT0276_.09.0386b07: 其法性者亦復如是。洗除塵勞等無差別。三法四果二道不一
です。
不一 とは一つではないという事で、不合とは意味合いが殆ど反対と言う程違いますし、不合という言葉は無量義経には使われていません。 

また、至法華皆合故不論廢 の文を、四十余年未顕真実 の間に入れていますが、そのような文もまた経文には存在しないのです。

「中華魔道に犯され続ける日本6」 に 未顕真実の捏造を疑って書いておきましたが、無量義経は支那から天台を伝えた伝教大師最澄の書いた物です。
 
という事は、支那天台版の無量義経が大正蔵経所載の物とは違っていた事は確かでしょう。

「日蓮書簡に取り上げられた無量義経」の108ヶの引用を調査をしましたが、「未顕真実」の文に関する箇所は全て X で、それは40ヶ所以上あります。
 
自我道場、海空、の表現は文章への影響は少ないので X の判定をせず ? としました。

ちなみに富士系の法華経開結は天台宗版である事が確認出来ましたが、他は大正蔵経版しか調べていません。

日蓮書簡に在る、無量義経関係の間違い箇所だけでも50ケ所を数えてしまいました。

次回はエピローグ、「普賢経」の文を調べた結果の?に就いて報告します。 

3 普賢経をねじ曲げた摩訶止観

2017/10/07(改編)  2016/07/18(文章調整)07/11、(追記) 2016/05/26(公開)

3   普賢経もねじ曲げた摩訶止観


普賢経は妙法華経の第二十八品、普賢観は結経の事で、別の経です。

法華経の結経とされている、普賢経とは正式には「佛説觀普賢菩薩行法經 (No. 0277)」 です。

妙法蓮華経の最終品で普賢菩薩がやって来て、未来の大乗を行ずる者を護事する事を約したわけですが、

最初の悟りを説いたとされる華厳経は釈迦の言葉で説かれた部分は殆ど無く、多くは普賢菩薩が代弁しています。

普賢経が法華経の最後に置かれている訳は、華厳の悟りを代弁したその普賢に、衆生が会うことが説かれている経だからです。

釈迦の悟りである華厳の舞台に衆生も漸く近づけると理解すれば、釈迦一代の説法が普賢に始まり、普賢に終わる輪になっていることが解ります。
つまり一代の説法の始まり終わりが、一つに繋がって、法輪が完結するのです。

転法輪とは良くぞ言ったもので、釈迦のみならず、過去無量の諸仏達もこのようにしてその生涯は法の輪を転じて来たのだという事で、
無量百千萬 億載阿僧祇 常説法教化 無數億衆生 とはこの事だと理解しましょう。


天台は衆生が普賢に会う事を、「普賢観」での言葉とし、日蓮聖人はその言葉を法華経優位の主な文証に使用していますが、二人は華厳を重要視しませんから、釈迦一台説法を法輪として意識しないようです。

普賢経を引用した書簡は (曾谷二郎入道殿御返事 、守護国家論観心本尊抄、四条金吾釈迦仏供養事、災難対治抄、釈迦一代五時継図、四条金吾殿御返事、一代五時継図、本尊問答抄、女人成仏抄、諌暁八幡抄、四条金吾釈迦仏供養事、千日尼御前御返事)の13書簡で、一書に複数回使用される例もあります。 

自分が実際にチェックヶした所は20か所ほどですが、法華経の一品ですから、経文の引用は全て確かでした。

ですが、 一つ内容にハテナ?と思わされるところがあります。

それは一代五時継図の 「不入三昧」の使い方で、「摩訶止観」の解釈に疑問を感じます。

一代五時継図での引用、 

「普賢経に云く専ら大乗を誦し三昧に入らず文、 又云く其の大乗経典を読誦するもの有らば諸悪永く滅して仏恵より生ずるなり文。」

これは日蓮聖人の趣意(取意)かと思いきや 更に

「止観の二に云く 意の止観とは普賢観に云く 専ら大乗を誦して三昧に入らず日夜六時に六根の罪を懺す」 と書いて、
安楽行品に云く諸法に於て行ずる所無く亦不分別を行ぜざれ文。 法華経に云く乃至余経の一偈をも受けざれ文。 又云く復舎利を安ずることを須いず文。」と
文章全体をすべて否定内容の経文でまとめています。


これは「不入三昧」を三味に入れないとの否定的意味と捉えているのです。

そこで摩訶止觀 (1911) を見ると、0014a1112  

「普賢觀云 專誦大乘 不入三昧 日夜六時 懺六根罪」 

, 上記の引用元と思しき文は確かに書かれています。

しかし、釈迦のオリジナルの経文に「專誦大乘 不入三昧」とは書かれていません。 
それどころか、「日夜六時 懺六根罪」のフレーズも 普賢経のみならず、経文としては存在しないのです。

大正蔵経で「專誦大乘 不入三昧」と入れて検索すれば経には無い事が確かられますから自分の目で確めるべきでしょう。



これでは全く経の趣意とも言えず、自分は恣意的曲解だと断じました。

読むべきは[佛説觀普賢菩薩行法經]の 「阿難 から 一日至三七日。得見普賢」 までの部分です。 
自らの目を信じて、是非ご自分の目でお読みください。

参考までに、呼びかけ部分等は略して 経の主旨を私なりに意訳しますと、

「是の(観)を学べば、その功徳によって、(上妙なる色)を見る事が出来る」 つまり 
「三昧に入らずとも、但大乗を誦持し、心を専らに修習し続けて、一日以上三週間程も、心心共に大乗から離れさえしなければ、普賢を見ることが出来る」 と説かれているのです。

この部分を天台は、 「専修大乗 不入三昧」 と一言にまとめた上で 「日夜六時、つまり四六時中 六根の罪に懺む(くやむ)」 と書き加えているので経の趣意とは真反対にしようと思っているようです。普賢経の続きを読むと、(人によっては一生から三生かかったとしても、大乗によって普賢を見ることが叶う)という内容が続けて説かれています。

それを 「日夜六時 六根の罪に懺む(くやむ)」 と書きかえたのですから、天台は何をかいわんや, 確信犯です。

観普賢経を「普賢観」と呼びながら、その大事な「観」ができないとしてしまった天台智顗の、酷い、自分の知る言葉では言い尽くせない程ヒド過ぎる、悪辣な改竄です。

天台のフレーズは、「大乗ばかりやっても三昧の境地に入る事は出来ず、日夜六根の罪を悔やむばかり という、うがった解釈を誘導します。 

普賢経の「不入三昧」は、三昧に入る事が出来ないのではなく、そこまで行けない者であっても・・の意味で、普賢菩薩に会えるという事を説く流れである事は、経文の前後に明らかなのですが、案の定日蓮聖人は天台の言葉にどっぷりで、経の意味が読めていませんでした。

止観の「専修大乗不入三昧」と、玄義の「四十余年未顕真実」、この二つの改竄が、日蓮聖人生涯の、法華経オンリー思考の大元となっているのです。 


次回からは「法華経にいわく(云、曰く)」と只「経にいわく」との引用文の?を報告を続けます。 
止観等の天台教学の他の誤りに関しては このブログNo. 6、14、15、22項にも解説します。


4 「経に云く」1  女人への偏見

2016/07/11(文章調整) 2016/05/29 (公開)

4  「経に云く」 として引用されたもの 1  平成談林1 から移動しました

日蓮聖人の立論の大元であった法華経の開結、無量義経と普賢経の言葉は双方とも天台の悪解であった事を最初に示しました。

今回は「経に云く」として引用された書簡から107か所を調べた結果、殆どが法華経の引用でしたが、いくつか別の経文もあり、また?もありましたので、順次提示してゆきます。

先ず どの経の文か出所不明の引用です。

引用 A 「経に云く「うえたるよにはよねたつとし」と云云」 54
書簡   上野殿御返事  [時国相応御書]

元文はひらかなだけで書かれていて、読みづらかったので(漢字)を宛ててみますと、
「経に云く「飢えたる世には 米 貴し」と云云」 となります。

この文章を漢文にして蔵経を探しても出て来ませんので ? の評価を付けました。

内容は極当たり前の事ですので、似た意味の文章が経文にいくつも在ります。従って経文通りの表示では無くとも、意味会いとして間違いではありませんのでその例を挙げます。

経文 例:
 
 1 佛説腹使經第二十
   聞如是。一時佛遊舍衞祇樹給孤獨園。與大比丘衆千二百五十人倶。
   爾時其國 米穀踊貴。人民飢餓。 (T0154_.03.0091b09:)  

 2 佛五百弟子自説本起經 (0199) 
 .  時國穀米貴 飢餓大恐懼   (04.0197b24:)

 3 大方等大集經 (0397) 
   穀米貴儉 國土饑荒 (13.0297b04:)

他にも類似の経文は多々在りますが、日蓮聖人が使用出来た経には限りがありますから、十以上の書簡に引用され 3の大方等大集經の文を、アレンジしたものと 推測します。  


 女人への偏見


引用 B 「経に云く「女人は大鬼神なり能く一切の人を喰う」と、」 55

書簡   法華初心成仏抄

ブログに何度も書きましたが、引用の文も「女人成仏」に関る仏教界にはびこる捏造、デマ経文の一つで、完全にアウト! バツXです。

断じて言いますが、この手の内容は経文には存在しません。  釈迦を侮蔑する者の仕業です。

女性を卑下するでっち上げ経文に就いては このブログの 13の銀色女経、そして平成談林1の「女は成仏できないの嘘」シリーズ関係のブログをお読みください。

「世界の原始、宇宙の法則を仏」と説いている釈迦が、「女人は地獄の使い」だの、「人を食らう」だのと言ったゲス好みの言葉を、言う道理がない」 と自分には疑問でした。

それが経文のチェックを始めた大きな動機の一つだったのですが、道元や日蓮は、こういった迷信めいたゲス言葉でも 釈迦が言ったと信じてしまったのですから、仏への理解、信仰心を疑います。

科学の未発達の時代の支那仏教からでは、仏教の何たるかは学びようもないので、理解しえなかった事は仕方のない事ではありましたが。

釈迦自身が過去世に於いて女性であったと、自分の知る限りでは五ツの経に於いて「女性が成仏して釈迦牟尼となる姿」を、わざわざ自身の身に充てて説かれているのです。
(女は成仏できないの嘘 4 釈迦は女だった 参照)

過去の釈迦自身を女性に置き換えて、地獄の使いだったと、謂う筈がないだろうと、少なくとも仏教者ならもっと釈迦を信じて、多くの経を調べてみるべきっだったのですが。 

釈迦はこのような ”馬鹿な事になる”事、つまり仏教さえも支那では魔道に染まってしまう事を、「仏説分別経」に説かれておられます。

当時の科学レベルでは嘱累しきれなかった、宇宙の姿を説いた時に、「汝らは護持する必要がない」、そして「今は留め置く」 と、「神力を以てしても嘱累しきれなかった」と言い、その後に、将来を見通したからこそ、科学が発達する五五百歳になったら弘めよ、と法華経に説いている訳です。 

その真意すらも汲めなかった程度の、中華魔道の解釈の名残が、殆どの現代の日本仏教なのです。



5 「経に云く」2  無明卵

2016/05/30 (公開)

「経に云く」 として引用されたもの 2
 
引用 C  「爰を以て経に云く「一切衆生は無明の卵に処して智慧の口ばしなし、
      仏母の鳥は分段同居の古栖に返りて 無明の卵をたたき破りて一切衆生の鳥をすだてて     法性真如の大虚にとばしむ」 と説けり  取意。 

書簡   新池御書 56


これは趣意としてありますから、日蓮聖人の経文の理解が書かれたものです。
弘安三年二月 五十九歳の書簡ですから、亡くなる二年前です。 本尊曼荼羅のデザインも確定し、思想も完成域に達していた時期の書です。 

経にいわく云々としら引用ですが、どの経のどの部分を元に纏めたのかが判然としません。 もちろん自分の勉強不足もありますが、

その何を問題として取り上げたかですが、 書簡は、「経にいわく」「取意」として、
「衆生を無明の卵に例えて、それを温めて孵化し巣立ちさせる母鳥が仏だ」と言っています。

趣意とは言え、そのようなストーりーを書いた経はありませんので、元になったと思われる部分、「無明卵」 から探す事が出来る筈です。

「無明卵」に就いては大般若波羅蜜多經 (0220)と中阿含經 (No. 0026)に出て來るのみです。
しかしその内容は、日蓮書簡の趣意の内容に結び付くのか、微妙なところです。

その経文は 中阿含經 (No. 0026)の .01.0679c02c~08:ページ当たりで、

入胎。然不如汝言。梵志。我於此衆生無明來。無明樂。無明覆。無明卵之所裹。  
我先觀法。我於衆生爲最第一。 猶鷄生卵。 或十或十二。
隨時念。隨時覆。隨時暖。隨時擁護。 彼於其後。鷄設放逸。
於中有鷄子。或以口嘴。或以足爪。啄破其卵安隱自出。彼於鷄子爲最第一。我亦如是 

とある文章が唯一で、一部の内容が最も近い文章です。


「一切衆生は無明の卵に処して」と部分的には書簡とピッタリの言葉は 「施設論」に見られます。

施設論 (1538) 0519b26ページに:「 一切衆生處無明中住著無明無明卵 障覆慧眼我當破無明卵 」 

智慧の口ばし以降の話にはなりませんが、この表現は書簡の趣意に影響したかも知れません。

しかしながら、「経にいわく」として一文とするには、経文と余り合致しないので、評価は?です。

また 「法性真如の大虚」 の言葉は 大般若波羅蜜多經 (0220) .07.019a05ページの:

有能守護法界 法性眞如 實際不思議界虚空界不。  から出た言葉かと推測します。

此処に挙げた引用の「経にいわく」の前段は、(題目を唱れば 天然と三十二相八十種好を備うるから簡単に釈尊程の仏に成れる) の文で、鳥の卵とそれを孵化する母鳥に例え話を持って來る流れです。 

いずれにしても、経文を端折って部分、部分ピックアップするやり方は何度か出てきます。
中には複数の経の部分々々をまとめたり、端折り過ぎたりがあるので、それらは全て?として今後も示してゆきます。


6 「経にいわく」3 華厳の衆生の作仏

2016/07/11、06/01、(加筆)  2016/05/30 (公開)


6 華厳の衆生の作仏


引用 D 「経に云く「諸法実相」云云、又云く「若人不信乃至入阿鼻獄」云云、
       いかにも御信心をば雪漆のごとくに御もち有るべく候、恐恐」

書簡   "西山殿御返事 [雪漆御書] 建治二年五十五歳   57

この書の問題は 又云く部分が端折り過ぎだという事です。

「若人不信乃至入阿鼻獄」 と在りそう文ですが、同じ文章は実際の経に在りません。

「若人不信」と「入阿鼻獄」は法華経、譬喩品のニ文の間を中略し過ぎの造語です。


0015b22-: 聞不能解 亦勿爲説 若人不信 毀謗此經 則斷一切 世間佛種 或復嚬蹙
而懷疑惑 汝當聽説 此人罪報 若佛在世 若滅度後 其有誹謗 如斯經典 見有讀誦 書持經者 輕賤憎嫉 而懷結恨 此人罪報 汝今復聽 其人命終 入阿鼻獄

意味合いとしては間違いではありませんが、入阿鼻獄 するのは不信 だけではなく、讀誦 書持經者を見て、軽んじたり恨んだりする人が 死後に入阿鼻獄するのです。 

経文の省略造語を「(経に)又いわく 云々」とするのは ??? です。


 

引用 E 「次下の経に云く如来智慧の大薬王樹は唯二所を除きて生長することを得ず
       所謂声聞と縁覚となり等云云 二乗作仏を許さずと云う事分明なり、
      若し爾らば本文は十界互具と見えたれども実には二乗作仏無ければ十界互具を許さざるか、  其の上爾前の経は法華経を以て定む可し 既に除先修習等云云と云う。 
 華厳は二乗作仏無しと云う事分明なり  方等般若も又以て此くの如し。」

書簡   二乗作仏事 58

この長文の引用での問題は、おおきな誤読を含んでいる事です。

この引用文の大元の出所は華厳経と法華経です。 その元の経文を示します。

大方廣佛華嚴經 (0278) .寶王如來性起品 第三十二之三 09.0623b07ページ~ 原文は

「 此藥王樹。一切諸處皆悉生長。唯除二處。 所謂地獄深阬 及 水輪中 不得生長。」
です。

此の薬王樹は 「一切諸處皆悉生長(どこに於いてでも、悉く成長する)」。

「唯除二處。(但し、二か所だけは例外)」で、それが、「所謂 地獄深阬 及 水輪中、(いわゆる地獄の深阬、光の届かない深い地割れの溝の底、と、水輪(滝つぼのようなグルグルと回転する水)の中で、そこでは「不得生長」、成長ができない」 とそのように言って 

「而大藥王樹亦不捨生性。如來智慧大藥王樹 亦復如是。 從一切如來種姓中生。」 
と続きます。

「而大藥王樹亦不捨生性」の意味は 「大藥王樹はその生性を捨てない」
つまり成長できないその二か所にあっても、生き続けているのです。 

そして、「如來の智慧である大藥王樹も、亦復、是のごとしで、一切の如來の種姓に従ってその中に生」、生れると言っているのです。

要は、先に示した二ケ所では成長は出来なくとも、生き続けている」 のです。


これを、日蓮書簡は 「唯二所を除きて 生長することを得ず」 と書いています。 
日本語としては 「二か所だけでしか生長できない、そこ以外では成長しない」 と言うのです。

この文体は、元の経文とは真逆の意味となる誤読での引用となっているので、問題なのです。


それでも 「若し爾らば本文は十界互具と見えたれども」 と一度は経の前後を読んでいながら、教科書の解説は正しいに決まっていると思い込んでいたようです。

理由は 法華玄論 (1720) T1720_.34.0387a04~ が、 「不生の二か所」を声聞・縁覚の二乗に充てて あげくに華厳では二乗は作佛しない、との論を立てているからだと思われます。

以下の文がそれに当たります。

「華嚴云 大藥王樹根不生二處謂深水火坑」  と取り上げ、それ以下は下記のように、華厳経に無い言葉を羅列した解説が続いているからです。
:
「既言二乘不生菩提心。若爾華嚴應未顯實也。 
又華嚴法界品明二乘未入法界。 法華已明入一乘。 然一乘法界是異名耳。
豈可言華嚴未明二乘作佛。故顯實亦未足耶。
問。何故華嚴未明二乘作佛耶
答。華嚴多是初成道時。二乘根縁未熟故 説其未得成佛。」

日蓮聖人の論は全くこの虚偽の解説を鵜呑みにして、依り切っているようにです。 

だから、「所謂声聞と縁覚となり等云云」 と、経に無い事を信じて 「二乗作仏を許さずと云う事分明なり」と言ってしまうのです。

華厳では二乗作佛が出来ない事が分明ならば、やはり法華経だ、と言いたい日蓮書簡は、
従地湧出品から 「除先修習學等云云と云う」をもって来て、「華厳は二乗作仏無し」の文だ と決めつけています。

除先修習學等云云のオリジナルは 「除先修習學小乘」 です、「華厳経」をも小乘に含めるためか 原文の「者」を「等」に置き替えたのです。 

華厳経は 宇宙の始まりから、その成り立ちの法則を説いた経で、釈迦の悟りを最初に説いた法で、理解できる者が殆ど無かったのですが、それを普賢菩薩が理解した言葉で判り易く書かれています。

それだから菩薩の経だと言われるのでしょうが、日蓮聖人も「閻浮提中御書」で
「華厳経と申す経は菩薩のことなり」 と言ってます。

実際は宇宙の組成の法則ですから、人も含めたあらゆる物質の法則が説かれているのですが、天台系はそれが良く理解出来ていない事を、これまでのブログに書いて来ました。 

普賢が良く理解したので、法華経にも普賢が最後に現れます。
結経では悪世に於いてその普賢を観る法が説かれているのです。

その普賢が仏の言葉を理解して偈に解説した言葉ですが、

華厳経、T0279_.10.0265c15~c18:

     譬如世界初成時 先成色界天宮殿    
     次及欲天次人處 乾闥婆宮最後成    
     如來出現亦如是 先起無邊菩薩行    
     次化樂寂諸縁覺 次聲聞後衆生    


ここに、世界(宇宙)が出来上がる順番を説いて、それになぞらえて 無辺の菩薩を行ずる者、
次に諸々の縁覚、次に声聞、その後に衆生を化す(度す)と 謂われた文があります。 

また 華厳経賢首菩薩品第八にも (278-09.0434b28ページ~
    
示現十方如滿月 無量方便化衆生   
於彼十方世界中 念念示現成佛道    
轉正法輪入涅槃 現分舍利爲衆生    
或現聲聞縁覺道 示現成佛普莊嚴
 
と 「無量の衆生を教化し、 或いは聲聞縁覺道を現じ あるいは成仏を現示する」 と在るのを違うバージョンの華厳経を使う天台系では、知るよしもないのでしょうか。

入法界品に縁覚、声聞の文字が出てない事で、華厳経では二乗は作佛しないと、天台系は単純に決めつけましたが、天台系が使っている華厳経でも 他品の文を読めば、

  「獨覺聲聞佛乘道 皆因十善而成就」  (0279) 0187a08ページ:   

独覚の声聞は佛乗の道で、皆十全を因に、而して成就す、

と 声聞が作佛する事が説かれています。  
 
教化衆生の順番は最後に置かれていますから、縁覚・声聞の作佛が終わらないと、順番待ちの衆生は教化されずじまいとなります。 

60巻の華嚴經(278) の賢首菩薩品第八之一には 無量の方便を使って衆生を化す事や、声聞縁覚道を現しての成仏の姿を荘厳に見せて、無量劫の衆生を度す事 が書かれています。 

_09.0434b28~c02 ページ 
   示現十方如滿月 無量方便化衆生   
   於彼十方世界中 念念示現成佛道    
   轉正法輪入涅槃 現分舍利爲衆生    
   或現聲聞縁覺道 示現成佛普莊嚴 
   現無量劫度衆生

この60巻物の華厳経は天台系は使用せず、80巻版を使用していたであろう事の論拠は、後のブログに示します。

大乗、小乗ですが、華厳は大きな悟り全体を一気に説いた経ですから、大きな乗り物、
それを判り易くするために小分して説いた経々を、小さな乗り物に例えたに過ぎない、と釈迦は譬喩品に言っています。

化け物すら授記を受けているのですから、人間が順番待ちのままに留め置かれる訳が在りません。 

ですが、取り上げた引用文は、法華経だけが一番だ、大乗だ、と言いたいが余り、二か所以外で成長するを大薬王樹を 二か所でしか成長できないと、「不得」の文字に捉われた解釈の引用をしています。

華厳経の文が、書簡で「一切諸處皆悉生長」を全て否定する意味の引用文として使われてしまった原因は、法華玄論からの天台への悪影響と、自身、法華経だけが真実との「先入観」に捉われ過ぎた結果、経を読みながらも、中華魔道の解説に負けてしまった、その事が判る例です。


先に「普賢経をねじ曲げた摩訶止観」を書きましたが、日蓮聖人の思考の原点である天台教学を科学の発達した今の時代にも、鵜呑みにしたままの宗教学を続けてはダメなのだという事を、そろそろ知るべきです。


7 「経にいわく」4 如来の使い

2016/06  (公開)

7 「経にいわく」4 如来の使い

引用 F 「経に云く「其の人命終して阿鼻獄に入らん」と云々 

書簡   59立正安國論、60撰時抄 61、如説修行抄 62、太田禪門許御書、63、上野殿御返事 「刀杖難事]

問題点、 「其人命終入阿鼻獄」 のそのままの言葉は経にはありません。
そのことは引用Dに説明しましたが、経の趣意を纏めた造語の部類ですので ? マークです。

「其人命終入阿鼻獄」 そのままズバリの言葉は

「其人命終入阿鼻獄」の言葉は、法苑珠林 (2122) .53.0416b04:ページに在ります。

法苑珠林は唐の道世が著した経文の解説ですから、経を読む人には共通の理解なのでしょうが、「経にいわく」と引用する場合は道世の文より、先ずはオリジナルの経文そのままを写すのが基本でしょう。 

釈迦のオリジナルである華厳経すら「爾前」として捨て去る事を主張する者が、他人の解説を「経文」として用いるのは、全く筋が通りません。



引用  G 「内典の仏経に云く「恩を棄て無為に入るは真実報恩の者なり」等」 

書簡   報恩抄 64

これも 上記と同じで 道宣の四分律刪繁補闕行事鈔 (1804) 又は 道世の法苑珠林の言葉を引用したもので、「棄恩入無爲」とは頭を丸めて出家するための受戒をする事です。

四分律刪繁補闕行事鈔か法苑珠林の前後の文章を読めば、出家する際の事を言っているのです。 しかしこの言葉は釈迦の「経」ではなく、 道世は 清信士度人經の言葉としています
勿論「清信士度人經」なる経は釈迦の経ではありませんので 大正蔵経には乗っていません。

「経にいわく」は??というより間違いです。 

唐時代の書ですから原文は漢文の 「棄恩入無爲 眞實報恩者」 で、今は日蓮書簡は殆ど下し文で出版されていますが、オリジナルの報恩抄は、この部分はそのまま漢文で書かれています。 




引用  H 「故に経に云く四百万億那由佗の国の人に施すに一一に皆七宝を与え又化して六通を得しむるすら・・・・」 

書簡   大夫志殿御返事 [付法蔵列記] 65

これも経文には見つからない言葉なので ? 評価です。

出所は  摩訶止觀 (1911)  で
  
 故經云。施四百萬億那由他國人。一一皆與七寶又化 七寶又化令得六通・・・・・

日蓮書簡はそのまま引用していますが、経名を明かさずに「故に経にいわくと」 と書いた智顗も、オリジナルの経には当たってはいないのでしょう。



引用  I 経に云く「即如来の使なり」と又云く「眼目なり」と又云く「日月なり」と 

書簡   下山御消息 66

法師品に「則如來使」の言葉ははありますが、それが眼目だとか、日月だと言う文はありません。 

眼目 日月は窺基(きき、慈恩大師)の [妙法蓮華經玄賛 (No. 1723)の言葉,で
0851c26ページに: 「 又爲眼目作導明故  又爲日月 開照出世正覺路故] と在りますので それによるかと。


引用  J 「経に云く「能説此経能持此経の人則如来の使なり」 

書簡    四条金吾殿御返事 [源遠長流御書] 67

前の引用 I と同じ 如来の使いの言葉ですが、この文は法華経の複数の品にまたがる文章をひとまとめにアレンジした、「造語」と言ってよい、経文を端折った言葉です。 

出所となったとみられる経文は

① 見寶塔品0034a22:ページの    若佛滅後 於惡世中 能説此經 是則爲難  
② 34b01ページの  我滅度後 若持此經 爲一人説 是則爲難  
③ 分別功徳品 46a15ページ:に  若能持此經 則如佛現在  が在り、
④ 法師品 30c26ページ に 世廣演此經。若是善男子善女人。我滅度後。能竊爲一人説法華經乃至一句。當知是人。則如來使如來所遣行如來事 

でしょう。 これらをまとめると「能説此経能持此経の人則如来の使なり」と言えるでしょう。

複数の経文をひっくるめて意訳した言葉で、意味合いは間違いではありませんが、かなりの範囲を大胆にアレンジした言葉を、「経にいわく」として 良いんですかネ?



8 法華経 

2018/09/15(一部削除)2018/7/21(追記改編)2017/02/11(改編) 2016/05/31 公開


8 法華経


今回は「法華経」引用にさえも問題がある例です。

以前、産湯相承に於ける壽量品との引用文が、実は譬喩品の文だとその間違いを指定し、やはり偽書であろうと書きましたので、此処のブログにはそれを取り上げません。

流石に法華経の引用には間違いは少ないです。
が、日蓮聖人なら ゼロ で有って欲しかったです。


引用  K 法華経に云く「過去に十万億の仏を供養せん人、人間に生れて此の法華を信ぜん」

書簡   妙法尼御前御返事 [臨終一大事] #68

法師品には確かに「過去に(嘗て)十万億の仏を供養せん」と同意の言葉はあります。

妙法蓮華經  0030c13ページに 「藥王當知 是諸人等已曾供養 十萬億佛於諸佛 と。

そこから続く文、「所成就大願 愍衆生故 生此人間」以下、日蓮聖人が多用する、「如来の使い」という言葉が現れる c28ページ辺りまでを、読んで見ましょう。 

書簡の引用の「人間に生れて此の法華を信ぜん」という言葉にするには、少し端折り過ぎで雑な纏めだという事が判る筈です。

下記の経文ですが、一般の人は飛ばして結構ですが、もし暇が在る時にでもチェックされると良いでしょう。 

仏は全ての人を作佛させるためというただ一つの一大事の因縁でもって出現したのですが
人が作佛する為には、
「受持讀誦解説書寫」 して、法華経だけではなく
「種種供養經卷」 して、
「華香瓔珞 末香 塗香 燒香 繒蓋 幢幡 衣服 伎樂」など、
あらゆる供養をもって敬い、一切世間への奉仕で如来への供養とするならば、
その人はまさに、阿耨多羅三藐三菩提を成就した大菩薩であって、
(菩薩は)民を憐れんで民間に生まれ、法華経を説く
と言う訳で、「何況盡能受持種種供養者」 と供養を尽くす人なら当然菩薩になると。

とのプロセスが説かれています。 其の上で以下に続きます。

「藥王當知。是人自捨清淨業報。於我滅度後。愍衆生故。生於惡世廣演此經。
若是善男子善女人。我滅度後。能竊爲一人説法華經乃至一句。
當知是人。則如來使 如來所遣 行如來事。」 
と仏の滅後にそのようなプロセスを経て法華経を説く者を、「仏の使い」と言うと。 

これを単純に 「人間に生れて此の法華を信ぜん」の一言にまとめたのですが、
ご自身は法華経を咀嚼しているからでありましょうが、
他人に教えるにはあまりにも端折り過ぎなのでは? と、?マークとしました。 


引用  L 「是の故に法華経に云く「父母所生清浄 常眼耳鼻舌身意 亦復如是」文 

書簡    当体義抄 #69

この文章は

「法華經安樂行義 (No. 1926 慧思説)」 の言葉 
「父母所生清淨常眼耳鼻舌身意亦復如是」そのものであって、
法華経の経文とは違います。
 
従って X 、間違いとします。

法華經に於ける類似の文は、 

法師功徳品の文に  「令清淨是善男子善女人父母所生清淨肉眼見於三千大千世界内」 
    
法師功徳品 にはまた 「以父母所生清淨常耳 皆悉聞知如是」 の言葉もあります。

みた通りで 文体がまるで違い、意味するものも少なからず違っています。

更に華嚴經にも (0279) 「 衆苦休息得十種清淨眼耳鼻舌身意亦復如是」 類似の文がありますが

父母所生清浄常眼耳鼻舌身意亦復如是」 は経文に存在せず、明らかに「法華經安樂行義」 の引用です。



引用  M 「法華経に云く「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば是(人)当に畜生に堕すべし」 

書簡   十法界明因果抄 #70

これも内容としては間違いでは在りませんが、 法華経にいわく云々とするには端折り過ぎで、?評価です。

元の経文は 譬喩品の2か所の文で、その中間を略して繋げた言葉です。

妙法蓮華經 (0262) 0015b23ページ 毀謗此經 則斷一切 世間佛種。

*中略* して「當墮畜生」の文が出て來るのは、c02ですから、前例ほど多くの文は省略してませんが、その間に
入阿鼻獄」という段階があって、そこから脱して畜生となるプロセス92文字を略すことは、端折り過ぎとしました。


これで法華経引用のチェックは終わりますが、
解釈で特に開と結に天台教学の重大な誤りの刷り込みが、日蓮聖人の主張の根幹を誤らせた事が判ります。

その代表例が観心本尊抄の捃拾の説明で、法華経を考える 6 最低だった妙法蓮華経の編集に追記した内容を、ほぼそのまま記載します。

日蓮聖人は「十方より来る諸の分身の仏各本土に還り給う 乃至多宝仏の塔還って 故(もと)の如くし給う可し等云云、」「薬王品已下乃至涅槃経等は地涌の菩薩去り了つて迹化の衆他方の菩薩等の為に重ねて之を付属し給う捃拾遺嘱是なり。」と、観心本尊抄には智顗の文句の言葉。捃拾、「落ち穂拾い」説を踏襲していました。

薬王品に於ける宿王家への附属は「十方より来る諸の分身の仏各本土に還り給う 乃至多宝仏の塔還って 故の如くし給」うた後の事だから 捃拾遺嘱 だとしています。

ところが薬王品は「多寶如來 於寶塔中 讃宿王華菩薩言 善哉善哉 宿王華」云々 
の言葉で終わるので、多寶如來も寶塔もまだ帰ってはいません。
「多宝仏の塔還って 故の如くし給」うは、薬王品を読めば誰にでも分かる間違いです。


後で述べますが、日蓮聖人は日本では尊敬に値する宗教者ではありますが、天台に学んだ妙法蓮華経が最高の訳であると言っています。

その日蓮聖人が何故素人にもすぐに分かるような、このような間違いを、それも「観心本尊抄」に書くのか、自分は戸惑い、6年前にさり気なく書きましたが、薬王品を読めば誰にでも分かる間違いにもかかわらず、日蓮聖人の間違いは無視されるようです。

此処まで222件のチェック結果をファイルした結果の内、 誤り、? は引用A~Mまでの13例、
普賢経、無量義経の18例、 経にいわく等、31ケ所で、正解率は86% でした。 

法華経解結にさえ約14%もの誤りがあるのですから、その他の経ではどうなるのでしょうか。


次回からは 「XX経にいわく」 と法華経以外の経文名指しでの引用文から、そこで見た問題点を挙げてゆきます。

2018/09/15 削除箇所

ある読者の方の指摘で サーチ方法を変えて 分別功徳品に「悪世末法時」の言葉があることを確認しました。 大正蔵経の2015版の検索では「悪世末法時」を入れても、今もヒットしませんが、2018版ではヒットします。以下の部分を削除しました。

「分別功徳品には「悪世末法」も、悪世や末法の文字どころか「悪」の字さえも、存在しないことは、誰でも見るだけで分かる事です。 何故か、誰も気づかないのが不思議です。以下の部分を削除しました。
ご指摘ありがとうございました。

9 その他の経 1 「或る経」

2016/06/02(公開)

9 その他の経 1 「或る経にいわく」 での?


日蓮書簡ですから、「法華経開結」からの引用数が圧倒的に多いことは想像がつきますが、その他の経で、経名を示して引用された文も相当数あります。
日蓮書は全て読みはしましたが、エクセルに記録したチェック項目は訳500件程です。

記録しなかった残りは、正直ざっと書簡の内容を読んで、間違いようのないものでした。

此の会からは、法華経以外で引用された経名を、エクセルでアイウエオ順にした所、漢字の音読み順のような並びになりましたので、そのままにしてますので、必ずしもアイウエオじゅんにはなっていません。

経名は阿含から並びましたが、?やXマークの最初は、「或る経」 に在りましたのでそこから始めます。


引用 1   「或経に云く六道の一切衆生仏前に参り集りたりしに仏彼れ等が身の上の事を一一に問い給いし中に仏地神に汝大地より重きものありやと問い給いしかば地神敬んで申さく大地より重き物候と申す」  

書簡    刑部左衛門尉女房御返事 71


問題点 :  出所不明  (出所不明とは大正蔵経をには該当する文が見つからないという事)



引用 2   「或経に云く「須弥山はくづるるとも大地をばうちかへすと」 ㊵

  
書簡    上野殿御返事   /文永十一年十一月 72

 
問題点 :  出所不明  


探し方が悪いのではなく、(最蓮房御返事) の 「或る経に云く「若し誹謗の者には共住すべからず若し親近し共住せば即ち阿鼻獄に趣かん」と禁め給う是なり」 の言葉は
大方廣十輪經 (0410)  に存在する事は確かめられました。
  
大正蔵経に在れば、釈迦の経以外でも、大概は探し出せるようになっているのですが、上記の2例は、今のところ見つけられません。  発見次第報告しますが、日蓮聖人も、経名を記憶してなかったか、参考にした書にもある経としか書かれていなかったのではないかと思われます。

話の内容からも、元々存在しないケースと自分は考えますが、若し、当該の経を見つけられた方はメールでご教授下さると、ワインもおいしく飲めるようになりそうですので、よろしくお願いいたします。


10 その他の経 「華厳経」 1

2016/07/27(加筆)、07/18(調整) 2016/06/20 (加筆調整) 2016/06/02 (公開)



10 「華厳経」 引用に於ける大間違い 1


引用  1  華厳経に云く女人を見れば眼大地に堕落す何に況や犯すこと一度せば三悪道に堕つ文。 

引用  2  華厳経に云く女人は大魔王能く一切の人を食す現在には纒縛と作り後生は怨敵と為る文。 

引用  3  華厳経に云く女人は地獄の使なり能く仏の種子を断つ外面は菩薩に以て内心は夜叉の如しと文。 

書簡    一代五時継図  (上記 3例とも) 73,74,75


 女性を卑下する経文など釈迦の経には存在しない。

仏教を学ぶ者はそれを肝に銘ずるべし。 心から怒りを込めて書き置きます。

これを書いている今朝も、パキスタンでは結婚を断られた男が名誉を汚されたとして、女性に火をつけて殺したというニュースを読みました。

一部の印度周辺やアラブ世界では今でもそうですが、女性は男性に護られる代わりに子供を生み、身をつくして家庭をキープする存在とされていて、日本的な男女同権などは在りません。 


日蓮聖人は華厳経に云くと、禅宗のバイブル「禅戒抄」では寶積経に「女人は地獄の使いなり」と書いてます。 

ちなみに、禅戒抄 (2601) は、82.0650a21: ページ~
 
「 寶積經云女人地獄使 能斷佛種子 外面似菩薩 内心如夜叉 一見於女人能失眼」
  
女は地獄の使いだ。外面は菩薩のようでも内心は夜叉で、観るだけで目が潰れるゾって、 

これが嘘だと知った時には、ぶん殴ってやりたくなりました。 怒りを治めたわけではありませんが、今では笑えます。 

華厳経も、寶積経も大きな経ですが、華厳には宇宙物質の成りたちが説かれています。

賢愚経の一部に 王女牟尼が釈迦牟尼となる話が書かれていますし、
増一阿含經 (0125)には  「爾の時の王女牟尼は今の我、是也」と、女性が釈迦、仏になる話が説かれているのです。(T0125_.02.0758ページc04)

それでも「女性は地獄の使い」などと、經に書かれてもない事を書いてあると喧伝し、それが長い間まかり通っているとは、 呆れ果ててものも言えない業界です。 

経文にない事を、デマに換えて教える行為が、仏を尊敬する行為だと思う人、 またそのように言う教祖たちが書いた物から、仏教を理解しようと学んでいる人は、さっさと諦めるべきです。 

後五百歳を千年近く過ぎた今、私たちは現代の科学レベルでの宇宙の姿を常識として知る人間です。そう在るべきなのです。

それをわざわざ三千年前の経文から学ぼうとするなら、せめてその目的を明確に自認すべきです。

古い時代の経文を理解するにしても、現代の量子論、特にシュレディンガーをおぼろげにも理解出来る脳力が必要です。
その基礎が無ければ、特に般若部はチンプンカンプンのままで、理解出来たと思ったならそれは思考回路の誤作動です。

地球は太陽を回っているという自然科学を、想像だに出来なかった時代の、迷信に凝り固まった思考の人々を相手に、例えの限りを尽くして説かれた経文です。
宇宙の成り立ちを説明する言葉すら無かったし、若しくは不足していた時代の漢訳が経文です。

仕方なく比喩・方便を駆使して釈迦が説明された言葉でしたが、とにかく訳が解らないままに記録され、或いは語り継がれ、咀嚼された記憶の集大成を、漢字に訳された物が今の仏教経典なのです。

法華経の従地湧出品以降は、釈迦が「汝らは護持する必要はない」と言って説き置かれた教えでした。 それは、仏(宇宙)の法則を知るには、唯佛与佛レベルの科学的理解力、知識が必要で、当時の人間の科学レベルで理解するのは無理だったからです。

そこには 「神力を以てしても、嘱累しきれなかった」 と吐露されており、「今は此処に留め置く」 とした上で、「2千年過ぎたら弘めよ」 と言われた、そういう経です。
 

「女は地獄の使い」だのと言う捏造経文をさえ疑えなかった支那仏教の教祖達、その経疏を未だに信ずる程度の頭脳レベルでもって、釈迦の時代の、不充分な言葉に残され、意味が解らない処は陀羅尼として、擬音を頼りに漢訳された経文から、当時の比喩や方便で語られた宇宙自然の法則を読み解こうとするわけですから、 到底理解できるわけがありませんし、人生の貴重な時間を無駄に消費するだけです。

現代の科学を学び、量子論を知った頭で読んでこそ、ああこの事を言いたかったのかな、イヤアすごいなア! と経文を楽しむ事が出来て来るのです。(自分の体験ですが)。

仏道修行には女性の色気は確かに大いなる邪魔だったかも知れませんが、それは修行僧個々人のスケベ根性の程度問題であって、蓮如なんて、20人以上も子供をつくっています。

性欲問題解結の為に経文を捏造して迄、女性を卑下した事は誤りです。

自分のスケベ根性を抑えられない、自分の意志を制御出来ない奴なら、性犯罪を犯しこそすれ菩薩にはなれません。 如説修行なんぞ到底無理なので、どんどん脱落させれば良いのです。

真の経文には元々馬鹿な理屈は在りません。 
女体の産道の場所が不浄だとして、釈迦は横腹から生まれて直ぐに七歩あるいて、「唯我独尊」と言ったなどという経は明らかに捏造で、馬鹿な僧はそういう事をやりたがるのです。

修行の邪魔だからと言って、経文を捏造してまで女性を悪く言った、その事実が、お門違いどころか、釈迦の心を貶める中華魔道に汚れた支那仏教のしたたかさ、程度の低さ、愚かさが現われています。 

経文の中に真実を求めたいなら、その事に気付いて欲しいものです。 

当時の社会環境では、女性成仏を理解させるために、始めは仕方なく「変成男子」 として成仏を納得させるしかなかった程の、徹底した男尊女卑の社会でした。

3千年前の社会環境の中で、女性も含め、生命体は皆、自然の法則、つまり「仏」、の生成物である事を説くために、釈迦は自らも過去には女性であったと、銀色女経等、先に示した以外にも多くの経に説かれています。

釈迦牟尼の牟尼(ム-ニ-)はプリンセス・ムーニーの牟尼だったとの経は紹介しましたが、 月上女経では女性の姿のまま仏である事を右手の上に仏の姿を見せて、多くの菩薩たちの疑念に一問一答の形で答えています。 

結婚し、自分の子供、ラゴラ、を弟子として、命の大切さを教える釈迦が、一方で母性である女性を卑下する道理がない事くらい、経を読む人間がどうして気つけないのですかネ? 

法蔵菩薩は阿弥陀如来になるために、念仏をした者は、例え女性であってもそのままの姿で極楽世界へ拉致して?連れて行っちゃうのです。 

どんなに方便や比喩を用いても「嘱累する事は出来なかった」と、神力品に言って、直後に、「五五百歳」になったら弘めよと説いた「薬王品」では、女性がそのままの姿で極楽世界に生まれる事を説いて、阿弥陀経をフォロウしています。 


今回は華厳経に関する誤用、マチガイ、捏造経文の指摘でしたので、 話がくどくなりました。

これまでも女性の成仏に対する仏教界の大いなる誤解に就いては、ブログ平成談林に何度も書いて来ましたので、平成談林1を再度チェックしてみて下さい。


11 「華厳経」 2 天台の呆れた捏造

2018/4/7(改編) 2016/07/19(加筆調整)  2016/06/03 (公開)

11  華厳経 2 呆れた捏造


引用   華厳経に云く「究竟して虚妄を離れ 染無きこと虚空の如し」 

書簡   如来滅後五五百歳始観心本尊抄 76


引用の例文は全くの捏造で、天台系が普段使わない60巻ものの華厳経にしかない言葉を組合せた造語です。

初發心菩薩功徳品第十三 の言葉にある
       無著無所依 無染如虚空   T0278_.09.0453c01ページ:  と     
  究竟離虚妄   清淨眞法身  T0278_.09.0458a03ページ:   
ですが、
ページをよく観れば判りますが、一つの文章の言葉ではありません。

無染如虚空から究竟離虚妄までの間には、大正蔵経の4ページ分、3780文字、壽量品の1.6倍もの経文が長々と在って、その内容は無視されているのです。 

更にその前後を逆にしてつなぎ、「究竟して虚妄を離れ 染無きこと虚空の如し」と、一言にしています。 
普通論文ではこのように引用する事はあり得ず、問題というより捏造でしょう。

極端に例えると、 

自我得佛来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇 と 堕於悪道中 、
これらの言葉は一文ではありませんが両方とも壽量品に存在する言葉です。 それをひっくり返しにつなげて、

「堕於悪道中 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇」 として、壽量品に書いてあると言うのと同じです。

経文に出て來る離れたフレーズの前後を反転させ、それをつなぎ合わせて創られた用語ですが、妙法蓮華經玄義を見てか、日蓮聖人はそれをそのまま信用して使用したのだろうと思われます。

この観心本尊抄は、自問自答形式で書かれており、「究竟して虚妄を離れ  染無きこと虚空の如し」という言葉は問の中の言葉です。 だから日蓮自身の言葉ではないと、そのように反論する人はあるかも知れません。

旅客と主人の問答形式で書かれた「立正安国論」以来、自問自答形式は日蓮聖人の論書の特徴で、日蓮聖人自身が想定した問答で持論を説明する、ずっと用いられている形式です。

この書簡での問いも、自論の正当性を答えとして書くための設問である事は、書簡を読めば明らかです。 実際に受けた質問なら、問者の名も書くでしょう。 

日蓮聖人は妙法蓮華經玄義 T1716_.33.0734b16~17の、「究竟離虚妄 無染如虚空」を引用したと思われますが、智顗は同文を維摩經玄疏にも (1777) 0547b24-0553x01: 法華嚴經云 究竟離虚妄 無染如虚空 故知一切思量分別憶想 と使っていますので、そちらかも知れません。
何れにせよ日蓮聖人も華厳経の原典を読んではいない事が見て取れます。

それにしても、華厳経に文を求める事は大変手間のかかる仕事です。
ですから智顗も、まさかバレる事はないと思って捏造したのでしょう。

3千7百文字もの中間の経文の意味を無視して、しかも言葉の順を入れ変えての造語を考えるとは、流石の中華の魔道汚染ではありますが、大変な事でしたでしょう。 
でも、自分のようにちゃんと経文を読む人には、嘘はすぐにバレてしまうのです。




引用     華厳経に云く「衆生界尽きざれば我が願も亦尽きず」等と云云 

書簡     爾前二乗菩薩不作仏事 77

諸経が二乗作仏を許さずという事を言いたい為にいろいろ経文を探されたのでしょうが、探した元が経ではなく、諸宗の参考書からだったようです。

「衆生界尽きざれば我が願も亦尽きずと類似の華厳経の文は これも60巻版の経にのみ存在する文章で、

華嚴經の原文は(0278) 0182b18ページの: 若衆生界盡我願乃盡

です。  見た通り、これは肯定文であって、前後の文には「不盡」の言葉は在りません。


日蓮聖人の引用は否定文になっていますが、それは法華経玄賛 (1723)  34.0847a21ページの

盡我願乃盡如是衆生界不盡我願亦不盡 そのものです。 

日蓮聖人は、60巻物のオリジナルの華厳経は読んでいないのであろう事が判ります。



12 海竜王経、観念法門経、起世経の出鱈目

2016/11/12(改編) 2016/06/03 (公開)

海竜王経、観念法門経、起世経の出鱈目


引用   海竜王経に云く「竜女作仏し国土を光明国と号し名をば無垢証如来と号す  

書簡   女人成仏抄 78


先ず、「海竜王経」には「龍女」も「光明国」も出て来ません。


よくぞまあ, 此れまでばれなかったものですが、鎌倉仏教は女人成仏に関しては、呆れるほど嘘と誤りばかりです。

それは坊主や仏教学者どもの怠慢で、経を学んでいない証拠です。鎌倉仏教とは所詮はそういうものだという事を、大正蔵経の 佛説海龍王經 (0598) を 自分の目で確かめて、知ってください。




引用   観念法門経に云く 戒を持ちて西方弥陀を思念せよ と文。 

書簡   一代五時継図 79


観念法門経とは「觀念阿彌陀佛相海三昧功徳法門」の略称で、大正蔵経では1959番の経です。

問題点は、引用された文章は「觀念阿彌陀佛相海三昧功徳法門」には在りません。

従って 「観念法門経に云く」 は X です。

この引用文の内容に近い経文としては、

般舟三昧經 (0418) 0905a01ページの 「持戒完具獨一處止心念西方阿彌陀佛」 だけです。

更に調査すると「西方指南鈔 (2674)」、「黒谷上人語燈録 (2611)」等に類似の解説文が見られます。

黒谷上人語燈録とは鎌倉時代文永11~12年(1274~1275)に編纂された法然遺文集で、

そこに 「 於未來世惡衆生 稱念西方彌陀佛 」 (黒谷上人語燈録 0193x33ページ) 又、
西方指南鈔 (2674) 0857a02ページにも 同文  稱念西方彌陀號 が見られます。 


書簡、[聖愚問答抄上]でも観念法門経が引用されていますが、そこでは正しい文が写されていました。 

日蓮聖人が実際に経を読んだなら一代五時継図の間違いは起きないでしょうから、誤った参考書を使ったと思われます。 確定はできませんが。



引用   起世経に云く 「諸の衆生有りて放逸を為し清浄の行を汚す 故に天雨を下さず」  

書簡   下山御消息 80


起世経(0024)には起世因本経(0025)との二訳が存在します。

不降雨に関する箇所は、どちらの翻訳も 「然行雨諸神。有時放逸。以放逸故。彼雲不得依時降雨。」 と同文です。

但し「諸神」は、本因経では 「諸天子輩」 と表現されています。

放逸とは過失の意味ですので、神さまのミステイクで降らない時もあると言っています


道世の「法苑珠林(ほうおんじゅりん)・失候部第十二」は 「如起世經云」 として五個の降雨の障外を解説しています。

その四番目の因として 「第四有諸衆生爲放逸汚清淨行故天不依時雨」があり、日蓮書簡の引用の文体は「法苑珠林」その物でした。

「如起世經云」 の意味は 「起世經の如く云うならば」、という意味ですから、「起世経にいわくと
日蓮聖人が書いたのは早とちりと言えます。
 
起世経にない事は経を詠めばわかる事ですので、日蓮聖人は起世経そのものは読んでいなかったと思われます。

施設論 にも、「天不降雨」 の八種の原因に関する説明があり、そこにも4番目の因として放逸が書かれています。

起世経では 他にも不降雨の因は 「皆行十不善業」(十善を為さないから)とも言っています。


近頃では地球温暖化が天候不順の原因だと言いますが、 地球の磁場の北極点が此処十年ほどで大幅に、それも通常より早く移動しています。

磁場は太陽風が運ぶ自然放射能をブロックしているので、その範囲も磁極の移動に伴って微妙に変化している筈です。

それが何を意味するかというと、放射能の粒は雨雲の種になっていますので、海上の雲の発生が減容し、位置も例年の位置とはズレて来ています。 それに伴って海水温が変わり、エルニーニョ、ラニーニャの発生位置が不安定になりますから、その結果、異常気象が誘発されているのではと自分は思っています。

今日六月三日時点で、今年は南太平洋上に台風が一つも発生していません。 
ヨーロッパでは150年ぶりの大雨でパリではセーヌの洪水が懸念されています。
雨や風の吹き方も年々記録的何とかと云われる事が多くなっていますが、 二酸化炭素の増加が原因ではないのです。

二酸化炭素が原因で、地球に災害がもたらされると言うなら、 皆さん、一斉にビールを飲むのをやめたらどうでしょう。 近年の空気中の二酸化炭素の増加と、支那人のビール消費量の伸びが同期しているのも、どうか気になさってください。
 
これは時事雑談のページに書くべき内容でしたが、 経文の降雨の因につられて自分の意見を書いてしまいました。










13 銀色女経 

2016/07/10 (加筆) 2016/06/04 (公開)

13  銀色女経・ 月蔵経

2016/06/04 (公開)

銀色女経 

引用   銀色女経に云く「三世の諸仏の眼は大地に堕落すとも法界の諸の女人は永く成仏の期無し」云云  

書簡   女人成仏抄 一代五時継図 薬王品得意抄  81,82,83

何度も 々 書いてきましたが、三世の諸仏の眼は大地に堕落すとも法界の諸の女人は永く成仏の期無し どころか、銀色女は釈迦自身だったという経ですから、銀色女経は女人成仏の経なのです。

一度でも経を読めば、すぐに解る事なのに、よくぞ千年もの間しらばっくれていられたものです

経を読めば一瞬でバレる嘘が、21世紀になって自分が指摘するまでまかり通っていたなんて、よくよく坊主どもは経を読ンでいないという証拠というか、「果報は寝て待て」という言葉はこの経の「銀色女」が王になる過程をオチョクッタ言葉ですから、実際には読んだ上で経を馬鹿にしていた証拠です。 

この例以外にも、仏教界には 女人成仏に対する多くのデマがまかり通っています。

それもこれも、分別経の 「仏教が支那で魔道に染まる」 と説かれていた現象なのです。 

明治時代に刊行された子供向けの仏教説話には、乳房を切って赤ん坊を救う銀色女の、経の一部の説話があります。 ですから、「女は地獄の使いだの、間違っても成仏しない」だのという云われが、間違いまたはデマだという事を、仏教者は知らなかった訳でもなさそうです。

このブログを読む人は、少しは仏教を学ぼうという人でしょうから、是非、本当の銀色女経に目を通してください。 

そうすれば、日蓮書簡が、度々引用する上記の文章が、いかにひどいデマだったか、直ぐに確認出来ます。

叡山を頂点とする平安・鎌倉仏教界は、そのような風土だったという事を知った上で、のめり込まずに仏教と接する事の必要性を自認できるでしょう。 

一代五時継図には 銀色女経以外に 下記の女性に関する仏教界のデマが羅列されています。

一、四十余年の諸の経論に女人を嫌う事
 華厳経に云く女人は地獄の使なり能く仏の種子を断つ外面は菩薩に以て内心は夜叉の如しと文。
 
又云く一び女人を見れば能く眼の功徳を失う縦い大蛇を見ると雖も女人を見る可からずと文。


華厳経に云く女人を見れば眼大地に堕落す何に況や犯すこと一度せば三悪道に堕つ文。

十二仏名経に云く仮使法界に遍する大悲の諸菩薩も彼の女人の極業の障を降伏すること能わず文。

大論に云く女人を見ること一度なるすら永く輪廻の業を結ぶ、何に況や犯すこと一度せば定んで無間獄に堕すと文。

往生礼讃に云く女人と及び根欠と二乗種とは生せず文。
 
大論に云く女人は悪の根本なり一たび犯せば五百生彼の所生の処六趣の中に輪廻すと文。

華厳経に云く女人は大魔王能く一切の人を食す現在には纒縛と作り後生は怨敵と為る文。

これらは 全部 嘘です。 呆れて物も言えません。

「云く女人と及び根欠と二乗種とは生せず」 の文は 往生禮讃偈 (No. 1980) の言葉でなく、
觀無量壽佛經疏、佛説阿彌陀經疏、他念仏系の疏に多く出て来ます。

もちろん釈迦の経文の言葉ではありません。


月蔵経
引用   安楽集に云く「大集月蔵経に云く 我が末法の時の 時の中の億億の衆生 行を起し行を修すとも 未だ一人も得る者有らず 

書簡   一代五時継図  一代五時図  84,85


月蔵経という名の経は特定できませんでしたが、 大方等大集經 (No. 0397) 月藏分という部が在りますので、その事かと思い 該当の文を探しました。 しかし見つかりませんでした。

月蔵経に云く我が末法の時の中の億億の衆生行を起し行を修すとも未だ一人も得る者有らず 

月蔵分のみならず、経には 「億億衆生起行修道 未有一人得者」の文字は無いのです。

「億億衆生起行修道未有一人得者 當今末法現是五濁惡世」 の文言は安樂集 (1958) 、
選擇本願念佛集 (2608) 、 徹選擇本願念佛集 (2609) 、:選擇傳弘決疑鈔 (2610) 、黒谷上人語燈録 (2611) に在り、「大集月藏經云」 としていますので、実際の経にはあたらずに、そのまま安楽集を写したのですが、

一代五時継図での引用は、「安楽集にいわく」を書かず、いきなり「月蔵経にいわく」 で始まっている事は、経に無い言葉を自らの引用した様に読めるので、少し問題です。



14 金光明経 の怪

2018/07/21(改編)2016/11/12、08/09、07/21、(加筆調整) 2016/06/05 (公開)

14  金光明経 の 怪




引用    金光明経に云く「枉(マ)げて辜(ツミ)無きに及ばん」と  


書簡    災難対治抄  立正安国論、 守護国家論           53 54 56


この文は、金光明経ではなく、大方便佛報恩經 (0156) 0132b13-ページ 「 茹食飮血噉肉 更相殘害 枉濫無辜 或父食子 或子食父父母」 の言葉の一部で、金光明経には存在しません。

どうやら日蓮聖人は金光明経を読んでいなかったようです。

では何処からこの文を、金光明経の文言として得たのでしょうか。


引用    天台云く「金光明経に云く一切世間所有の善論皆此の経に因る、 57

書簡    開目抄上


一切世間 所有善論 皆因此經 の文は 摩訶止觀 の言葉です
46.0077b01ページ、  佛説。非外道説。光明云。一切世間所有善論。皆因此經。

しかしこれも金光明経には存在しない言葉です。

天台云く」として金光明経の文を引いている事から、やはり日蓮聖人は金光明経は直接読んでいなかった、つまり手元に無かったのは確実のようです。

金光明経を自分で読めば、止観 に紹介された言葉が金光明経に存在しないと分かり、
智顗もいい加減さがも判ることです。

智顗は金光明経玄義にも金光明経文句にも「一切世間所有善論。皆因此經」と
金光明経に無い文を「光明云」と書いていますから、天台智顗自身も又、経を読んでいない事は明らかです。

経に存在しない文を「光明云」と書く事は、捏造の疑いというより捏造そのものです。 


引用    金光明経に云く 「其の国土に於て此の経有りと雖も未だ甞て流布せしめず
       捨離の心を生じて聴聞せん事を楽わず」 

書簡    立正安国論 86


金光明經 (蔵経No. 0663)の元文は、「世尊。若有人王。於此經典 心生捨離 不樂聽聞」 0343 b20 ページです。
見た通り、「心生捨離不樂聽聞」を導く文は 「此の經典に於いて」です。

前後の経文を読んでも、「此の経有りと雖も」とも「未だ甞て流布せしめず云々」とも言っていません。

上に示した金光明経の元文は、四天王の問いの中の言葉です。

それに対する仏の答えは 次ページ、0344b08~ からで、
 
「 爾時世尊。以偈答曰
此金光明 諸經之王 甚深最勝 爲無有上  十力世尊 之所宣説 
汝等四王 應當勤護 以是因縁 是深妙典 能與衆生 無量快樂 
爲諸衆生 安樂利益 故久流布 於閻浮提 能滅三十 大千世界 
所有惡趣 無量諸苦 閻浮提内 ・・・」 と

仏は「久しく流布させてきた」 と言っておられます。

それに反して、「此の経有りと雖 も未だ甞て流布せしめず」
「金光明経に云く」とは、アレンジにしても違い過ぎで、全く無理な注釈です。


安国論に引用した、その文章、 「 於其國土雖有此經未甞流布 心生捨離不樂聽聞」 は
実は金光明経の経文ではなく、註釋 (明一集2197) 0771a20-0771a23: の言葉です。

日蓮書簡には 金光明経の文として十書に引用していますが、上記の四書簡に間違いがありました。

金光明経については 再度取り上げます。 


それにしても支那仏教は、何故このような註釋をしてまで仏説を捻じ曲げたがるのか 

仏説分別経を知るまでは不思議でした。 

こうして支那魔道汚染の実例を知った以上、読者に知らせるのも、生かされた自分の使命かと。 

2016年5月25日水曜日

15 至門性経、十二仏名経、出家功徳経

2016/06/08 (公開)


15  至門性経、十二仏名経、出家功徳経


引用    至門性経に云く「木は金に遇つて抑揚し火は水を得て光滅し土は木に値いて時に痩せ金は火に入つて消え失せ水は土に遇つて行かず」等云云。

書簡    太田左衛門尉御返事[方便寿量肝心事] 87


問題    至門性経 という経名は、類似名も 蔵経に見当たらない。 
       
倶舍論記 (1821 等 に  眞沙門性經 という類似の経が出て來るが、それも蔵経には無い。

火得水而滅光 の言葉は摩訶止観 46.0108b22 に使用されている。
 
だが、日蓮聖人は 至門性経に云く と書いている。  蔵経には存在しない経名が支那仏教には多いので、日蓮聖人が何を参考にしたか不明。

 

引用    十二仏名経に云く仮使法界に遍する大悲の諸菩薩も彼の女人の極業の障を降伏すること能わず文。 

書簡    一代五時継図 88

「女人の極業の障」 とか、この手の言葉は、釈迦の経文には無いので、支那仏教での捏造経文だと言わざるを得ない。 

蔵経には 十二佛名経 という 経が存在しないのが佛説佛名經 (0440) に「南無十二佛名神呪經」という類似の名がリストされている。

往生要集 (No. 2682 源信) が「十二仏名経」という名を引用しているが 釈迦の経には女人を貶める文言は基本的に存在しないという事を肝に銘じてほしい。 

引用の文言は支那仏教の捏造であろう。



引用    出家功徳経に云く「高さ三十三天に百千の塔婆を立つるよりも・・・  云々 


書簡    出家功徳御書 89


出家功徳経に出て來る 「三十三天」 は次のっ文章のみ、である

佛説出家功徳經 (0707)で使われた「三十三天」 は 16.0814a17ページの
「壽五百歳。五百歳已。命終轉生三十三天。爲帝釋子。具受五欲。極天之樂。」だけで、

経に1500近く出て來る三十三天の文章には、「高さ三十三天の塔婆を立てる」 という話はどの経にも存在しない。
 
経以外にも 高さ三十三天の塔婆などという例は見当たらないところから、日蓮聖人が何処からこの話を引いたかは不明のままです。






16 浄名経、心地観経

2016/06/14  (加筆)  2016/06/11 (公開)  



16  浄名経   心地観経



引用    淨名經云始坐佛樹力降魔等云云  :   浄名経の「始坐仏樹」


書簡    開目抄上  90   開目抄下 91




先ず 経名「浄名経」 は通称 のようで 蔵経に於ける経名は「佛説維摩詰經 (474)」です。

開目抄上下に 浄名経の「始坐仏樹」という言葉を使用していますが、 経を見ると、

佛説維摩詰經 (0474) 0519c20-0519c20:     始在佛樹力降魔 得甘露滅覺道成

であって、意味は同じとしても、始在 と 始坐 では文言は違いますので??とします。

「淨名經云始坐佛樹力降魔等」の文言の出所は 例によって、摩訶止觀でしょう。

止觀 T1911_.46.0002b23:ページに 淨名云始坐佛樹力降魔得甘露滅覺」 
があり、それをそのまま引用した様です。

維摩詰經を読んでいれば、そのように書く筈です。 


追加

引用        されば浄名経と申す経には浄名居士と申す男目連房をせめて云く 汝を供養する者は三悪道に堕つ云云

書簡       盂蘭盆御書  92


浄名経(佛説維摩詰經 )には 浄名居士、目連房の名は出て来ません。 

維摩詰所説經  の文は  14.0540c07ページに「 汝者不名福田供養汝者墮三惡道」の文は在りますが、 しかし 
「浄名居士」 の名は諸の論疏には在っても、経文にはでてきません。  また
  

「目連房」 の言葉も 佛本行集經 (No. 0190)の.0913b08ページに  既閉彼門。其目揵連房門復開。尋即閉彼目連房門」 があるのみです。

したがって引用の文章は ??です。



心地観経


引用    心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ  


書簡    開目抄下  93

先ず経名「心地観経」 は「大乘本生心地觀經 (0159)」のことです。

引用された文言は心地観経には見当たらず、 大日經疏演奧鈔 (2216)と法苑珠林 (2122)等に見られます。

但し、大日經疏演奧鈔 (2216)も法苑珠林 (2122) 0842c27-0843a14: 經曰欲知過去因當看現在果 その他、 
知覺普明國師語録 (2560)、諸經要集 (2123):も 經曰欲知過去因當看現在果 と、これらは経いわくであって、心地観経曰くと書いて在るのは開目抄だけでした。

出所不明、ですが、心地観経にはない言葉なので X です。





引用    心地観経に云く一には一切衆生の恩、一切衆生なくば衆生無辺誓願度の願を発し難し

書簡    四恩抄  94

心地観経には 「一切衆生恩」 という言葉は在りません。

経文の「恩」に関する言葉は以下の通りで、ニュアンスも違います。

.03.0297a12: ページ、 世出世恩有其四種。一父母恩。二衆生恩。三國王恩。四三寶恩。如是四恩。

経では、四恩について述べているだけです。


上記の他 3ケ所 「心地観経に云く」が在りましたが、それは大乘本生心地觀經にその通りの文言がある事を確認しました。

只 日蓮聖人が大乘本生心地觀經に存在しない言葉を捏造する事は考えられませんので、 何か参考書を引用したのだと思いますが。





17 大勢至経 ・ 大経 (大般涅槃経)

2017/06/08(改編)、2016/08/11(追記)

17  (大)勢至経



引用    勢至経に云く平形の念珠を以ゆる者は此れは是れ外道の弟子なり我が弟子に非ず


書簡    一代五時継図  95


引用    大勢至経に云く「衆生五の失有り必ず悪道に堕ちん一には出家還俗の失なり」、


書簡    出家功徳御書  96


先ず、「勢至経」 「大勢至経」という経は存在するのか、 どの経の事を言うのか、いつも通り類似の経名も探したが、該当する経がない。引用経文も、蔵経中には発見できなかった。

引用文中の「平型の念珠」に就いても、経文には沢山の念珠という言葉が使われてはいても、平型の念珠に関しては見当たらず、どのようなものかも判らなかった。

蔵経中でも平念珠に言及しているのは日蓮書簡だけで、 上記の一代五時継図以外に、種々御振舞御書でも念仏者の平念珠使用について語られている。

ブログ 祇園精舎の鐘の声 に書いたが、念珠の素材としては菩提樹の種を最高としている。

その他に真珠を念珠にした事を称賛している経もある事。基本は丸い玉を、百八個繋げた物で、素材や数に順じて得られる功徳の量も違うようだ。 

経と言われるものには、釈迦が真に教えたかった法とは外れた、下らない事に言及されているものが多く在り過ぎる。 そういった経の殆どは、似非経・偽経だと思った方が良い、と自分は判断している。

出家功徳御書に引用された「出家還俗の失」という言葉に似た物としては、
雜阿含經 (0099)02.0284b13ページに: 「謂捨戒還俗 失正法正律」 の言葉があるのみで、ニュアンスも違う。この経文には、悪道に落ちる事は書かれていない。  

衆生の五失も経には出てこなかった。  出家いわゆる優婆塞、優婆夷も、衆生の一部ではあるが、多くの衆生が出家するわけではないのに、衆生失の第一が還俗とは成り得まい。
経文に無くて正解、捏造経文だろう。



大経 (大般涅槃經 (0374))

他にも涅槃経の間違いに就いては最終4回にも掲載しています。

引用   大経に云く「若し邪見なる事有らんに命終の時正に阿鼻獄に堕つべし」と云へり。


書簡   星名五郎太郎殿御返事 97


先ず大経とは何経を指すのか、勉強不足の最初は大般若經か、大集経か、大智度論の事か、等が頭にうかびましたが、引用された文から大涅槃経だという事が知れました。 
その後報恩抄に「大経と申すは涅槃経なり」と書かれていることに気づきましたが。

日蓮聖人は 「大経」 を21の書簡で24回、涅槃経又は大涅槃経の名で 「大般涅槃經 (0374)」を300回以上使用しています。  大経に云くとしての引用は7回で、それを調査しました。

大経以外の涅槃経の引用に就いて後日紹介しますが 大経の名で使用した7回引用の内、何故か以下の2回は誤りでした。


日蓮聖人の「若し邪見なる事有らんに命終の時正に阿鼻獄に堕つべしと云へり。」と引用しましたが、涅槃経には12.0482c07ページに 「阿闍世王についての「來月七日必定命終」して「堕阿鼻獄」と述べた話は
「阿闍世王は 若し耆婆(伝説的な名医ジーバカ)の言う通りにしなければ、來月七日には必ず落命して阿鼻獄に落ちる」という事です。

邪心による「墮阿鼻獄」の話は、ずっと後の12.0561c21ページの別の話で、
「見已即生惡邪之心。以惡心故生身陷入墮阿鼻獄」で生きたまま阿鼻獄へ墮ちる話です。

日蓮書簡の「例せば彼の苦岸比丘等の如し、故に大経に云く・・・若し邪見なる事有らんに」という話の流れは、涅槃経のアジャセ王の話の趣旨とは、全く異となっています。

引用文はの涅槃経の誤用で、邪心での生きたままの地獄とは意味が違うのです。 
したがって判定は 誤り  X としました。



引用    大経に云く「薩とは具足の義に名く」等云云 

書簡    開目抄上  98


引用の文は経に見当たらないので、具足の義は薩? という事で調べました。

具足の義に名くのが「薩」であると涅槃経に有るかと言えば、否です。


涅槃経には 具足 に就いて、「名具足義」 という言葉がある事はあります。 

大般涅槃經 (0374)12.0414a10:ページに 

「 離三箭是故名奢沙者 名具足義 若能聽 是大涅槃經」 と言う言葉が在り、
そこまで、自分の力量ではあまり意味の取り切れない説明が並んでいるのですが、
具足義 若しくは能聽(よく聞く事)、 これ大涅槃經なり と言う結論となっています。 
 
「薩」=具足義 という説明は経には在りませんので X としました。






18 大集経 捏造?

2016/10/13 (改編) 2016/06/15 (公開)



18  大集経  とされているが捏造経文か


引用     大集経に云く五箇の五百歳の後に無智無戒なる沙門を失ありと云つて是を悩すは
此の人仏法の大燈明を滅せんと思えと説かれたり、

書簡     四恩抄  99


「大集経に云」で検索しますと15の書簡に、18回程の引用が在って、中には同文の繰返し使用もあります。

大集経(だいしっきょう)という経名は 立正安国論に華々しく引用されましたので、自分には大変印象深い経名でした。 
そこで読破をトライしましたが、読むには大き過ぎるし、内容にもあまり個人的な興味がそそられなかったので、全巻踏破はその内に~ で、そのままです。 

とは言え、必要なところは全てチェックしています。  

処で、「無智無戒」 ですが、この使い方は経文にはありません。 
無戒」の言葉の使用も、経文には少なく、大集経には存在しない言葉です。 

滅大燈明」もまた存在しない言葉です。

日蓮聖人は何を見てこれを書いたのか、大蔵全体にも原典を見つける事は出来ませんでした。

2016/07/09 (文章調整)


引用     大集経に云く「頭を剃り袈裟を著くれば持戒及び毀戒も天人供養す可し
        則ち仏を供養するに為りぬ」云云、

書簡     出家功徳御書  100


この文は立正安国論にも使用されている文です。

経文は   剃頭著袈裟 持戒及毀禁 天人所供養 常令無所乏
        
 如是供養彼 則爲供養我 若有爲我法    (T0397_.13.0379c10~13)
     
ですので、引用は正確ではありませんが、内容的には一応正解とします。

ちなみに、大方廣十輪經(T0410_.13.0693c20:) にも

「佛言。善男子。若諸比丘佛法出家剃除鬚髮 披著袈裟。一切天人阿修羅皆應供養」 とあります。 
但し、経文は「若護持戒不應 謫罰閉繋 兀其手足 乃至奪命 悉無是法。」と続いていますので、
一寸でもサボろうものなら、無事には済みません。 
手足をもがれるか、殺されるかも知れないのです。

ですから、経文を読み込んだ者なら、出家僧が持戒であっても破戒僧であっても天人は供養する、などと脳天気な意味に取る事には、少し抵抗を感じるのです。

大集経の前段の経文13.0237b19:~は 当初は余りまじめでない僧、五比丘について、

「僧大修精進。棄捨世間所有諸事。惟希出世涅槃之道。所有功徳無量無邊。」という前条件があって、 そうであれば それは「是大福田。」となる。
だから、「應受世間」、 世間が受け入れて 而して「天人も供養」する
と言っているのです。 


だから国王は「是故大王。 汝等 應好 擁護 如法安置」 しなさいと続きますが
その前後の文には それが「則ち仏を供養するに為りぬ」とは、決して言われていないのです。

更に仏と王は 破戒僧に就いて語り合い続けます。 そこで仏は

「是因縁諸佛如來之所棄捨。非佛弟子 是魔眷屬。常趣惡道不墮僧數」

と、破壊の僧は仏の弟子ではなく魔の眷属 だと言っています。

経文からは坊主のコスプレを着けただけで天人が供養するとは、全く取れないのです。

経を読みこめば日蓮書簡の引用はご都合主義、間違いである事が判る筈です。


日蓮聖人は経文を全て読んだ上で 「頭を剃り袈裟を著」けてさえいれば、持戒だろうと毀戒だろうと 仏を供養する事になるから天人も供養する などと解したのでしょうか。

最初は安国論に引用し、晩年の出家功徳御書にまで、この過ぎた解釈を保ち続けています。

自分は 中華魔道の参考書からの影響ではないかと思っています。

正法眼蔵のに「佛言ハク。剃頭;著スレハ袈裟ヲ。諸佛ニ所レ加護セ。一人 出家スレハ者。天人ニ所ル供養セアキラカニシリヌ。2582_.82.0054a29」 とあるのは、袈裟を大事にする心からだと読めますが、そこにも、経の都合よい処だけをピックアップした支那仏教の影響は見てとれます。

仏教を学ぶ皆さんは 自分の目でオリジナルの仏説をちゃんと前後の文章までチェックしてください。

このように自分がブログで申しているのは、上記のような捏造経文では?とか、ご都合解釈では?と思われる例を複数見つけているからです。





19 大般若経

2016/06/17 (公開)

19  大般若経


引用    "大般若経に云く「般若を謗ずる者は十方の大阿鼻地獄に堕つべし


書簡    顕謗法抄  101


先ず日蓮聖人が大般若経として引用する経は 大般若波羅蜜多經 (No. 0220)です。

しかし大般若波羅蜜多經ばかりかではなく、般若部には「大阿鼻地獄」の言葉がありません。

般若と阿鼻地獄のセットから、強いて言えばですが、この言葉は、大智度論 (1509) .25.0502b18ページ~: 

問曰。舍利弗何以言五逆罪 與破法罪相似。答曰。舍利弗。是聲聞人常聞五逆罪最重墮阿鼻地獄一劫受苦。聲聞人不悉知供養般若得大果報。又不知謗毀般若得大罪故"

辺りからアレンジされた物と、考えられるかも知れません、 大智度論には「毀謗般若者」が「墮阿鼻地獄」となるとは直接的な記述はありませんので、 引用の文は捏造文とかんがえます。

日蓮聖人は 何か般若経の参考書から引いたのかも知れませんが、その元は不明です。

「墮阿鼻地獄」の言葉は、主に涅槃経と大集経に多くみられますが、前後を読むとどれも般若を謗ずる者との関係を顕す文章ではありませんので 評価は X です。




引用    大般若経に云く「若し菩薩設い恒河沙劫に妙なる五欲を受くるとも菩薩戒に於ては猶犯と名けずと」


書簡    一代聖教大意  102


大般若経の経文は 「若諸菩薩安住居家受妙五欲」 です

何処から「恒河沙劫」 などという勝手なアレンジが出て來るのか不思議ですので調べました。

恒河沙劫に五欲を受く、の言葉は次の2経に見られます。

佛説決定毘尼經 (0325) 12.0040a28~: 菩薩乘人於恒河沙劫受五欲樂遊戲自在受諸樂受諸樂已。未曾捐捨發菩提心

大乘修行菩薩行門諸經要集 (0847) 17.0943b24:  菩薩喩若恒河沙劫雖受五欲快樂 
菩提心無暫捨。 當知是菩薩戒行無缺。

二経とも菩薩はけして堕落しないと言っているのですが、恒河沙劫は 上記のどれかからの影響だと思われます。

いずれにしても大般若経の言葉ではありません。 

経文を勝手にアレンジ(捏造)した参考書を創る輩が悪いのでしょうか。  それとも意味が合っていれば、何をしてもよいのでしょか。
自分はオリジナルを変更するのは 良くないと事と観ていますので X  と判定します。




引用    大般若経に云く「若し菩薩設い恒河沙劫に妙の五欲を受くるとも 菩薩戒に於ては猶犯と名けず 若し一念二乗の心を起さば即ち名けて犯と為す」文、


書簡    十法界明因果抄  103


前記の例文を少し長く引用したものですので、評価は同じ理由で X ですが、 更に  
「不名猶犯」  の言葉も経文には存在しません。 

猶犯とは 犯に類するもの という意味かと思いますが、この言葉は、「佛説太子慕魄經」 に一度だけ登場するだけで、非常に珍しい言葉です。 

また一念二乗とは具体的にどのような事を意味するのかは自分は分かりませんが、華厳経の文からも良くない事である様です。


  




20 大品経(摩訶般若波羅蜜經)  捏造?

2016/06/18(公開)

20  大品経 (摩訶般若波羅蜜經)


引用    大品経に云く「初発心の時即ち道場に坐す」  


書簡    十法界明因果抄  104



大品経の名は蔵経にはありませんが、日蓮聖人が大品経として引用した文は 「摩訶般若波羅蜜經  (0223)」の文のようです。

 その所謂大品経には 「即坐道場」 の言葉は使われていません。

首楞嚴義疏注經 (1799) 39.0928c11: ページには 「大品云從初發心時即坐道場轉法輪度衆生"」云々と書かれていますので、皆それを信じて使用するわけで、 オリジナルの大品経のチェックなど、思いもよらないようです。

首楞嚴とはシュレンゴンと読み、英雄+武勇の合成語です。 
首楞嚴義経となずけたその義疏は19巻、大正蔵経の仕様で145ページに渡る大作ですが、釈迦の説いた経ではありません。
大宗の僧の解説疏ですので自分はこういう事が無ければ目もくれないものでした。 

その疏に上記のように 「大品いわく、なんたらかんたら・・」とある文章を、日蓮聖人がそのまんま引用したと言う訳です。

「初発心の時道場に座す」の言葉は半ば仏教界の常識でしたから、大品(摩訶般若波羅蜜經) に在ると言われれば、ない筈が無いと誰もが疑いもしない。
日本仏教はそういった空気の中に醸成されて来たのだという事が、これまで示した多くの事例から、そろそろ判ってもらえたでしょうか?


引用    大品経に云く「舎利弗仏に白して言く 世尊五逆罪と破法罪と相似するや、
仏舎利弗に告わく相似と言うべからず 所以は何ん若し般若波羅蜜を破れば即ち十方諸仏の一切智一切種智を破るに為んぬ、 


書簡    十法界明因果抄  105


T0223_.08.0305b07: 須菩提。若破般若波羅蜜。毀呰般若波羅蜜。 則爲破十方諸佛一切智。

前半は舎利弗、後の言葉を勝手に中略して、
後半は上記須菩提への 身口意業の説明の経文とを
中間の650文字程をすっ飛ばして 一つの文章としてアレンジしています。

前半の舎利弗の問いへの答えで、仏がその「所以」としている文章は304c26ページの文章ですが、それをずっと後の須菩提との会話、305b07ページ の答えと 繋いで一言にした訳ですから、
これは経文を勝手に繋いで造った文章なのです。 

中途の文言を端折り過ぎとも言えますが、「所以は何ん」 とされた言葉は、須菩提との会話の文章で、別の問いに対する答えですから、 どうせ経を読まないとはいえ、余りにも読者を馬鹿にした端折り方ではないでしょうか。

捏造経文 と言って過言ではありません。 よくある事なのですが、この事例も釈迦の経文をないがしろにする、嘆かわしい行為です。


天台、法華、禅、真言、どの宗派も同様の、中華仏教疏を原典にしている事を忘れずに、

原典の経に当たる事の出来る現代では、注意して仏教をもっと見直さなければならないでしょう。







21 大仏頂経 大梵天王問仏決疑経 (偽経)

2016/06/18 公開

21  大仏頂経


引用    大仏頂経に云く「発心の菩薩罪を犯せども暫く天神地祗と作る」と

書簡    十法界明因果抄  106


「大仏頂経」 という経ですが、大佛頂經十卷 と 大佛頂經第一卷  慧琳撰  の名が一切経音義リストされてはいましたが、大正蔵経には該当する経が有りませんので 経文には当たれませんでした。
したがって経文の言葉から探した結果です。


「犯罪初發心菩薩」 という言葉は 虚空藏菩薩經 (0405) などに 二度出て來ますが、いずれも意味合いが違う文章に出て來るだけです。


天神地祗 という言葉は、経典には一度も出て来ません。 


傳法正宗記 (2078) 51.0717a02:ページに: 天神地祗皆見而 という言葉が使われていますが、蔵経ではこれのみで、これも引用の文と意味合いが違います。 従って 

「大仏頂経に云く「発心の菩薩罪を犯せども暫く天神地祗と作る」 という引用の出所は不明でしたので ??評価です。




大梵天王問仏決疑経 (偽経)


引用    大梵天王問仏決疑経に云く「吾に正法眼蔵の涅槃妙心実相無相微妙の法門有り教外に別に云う文字を立てず摩訶迦葉に付属す」とて

書簡    聖愚問答抄上  107



大梵天王問仏決疑経は存在するのか?

この経は偽経だとの定説があります。 もちろん大正蔵経には登載されていません。

類似の文章も経文には在りませんでした。


引用文の内容ですが、正法眼蔵の涅槃妙心 実相無相微妙の法門有り ・・ よく言うよ という気がします。

教外に別に云う、文字を立てず・・・・ 当に禅宗っぽいところです。

釈迦は 仏道修行は、「如説修行」 だと言って、 経を 読誦し、書写し,解説(げせつ、説を理解)せよと 千回以上もいろいろな経に述べています。

文字が無ければ読誦も書写も、有ったものではありません。
文字を立ててこそ、如説修行は成り立つのです。

文字を立てず などと言うのは当に中華魔道の真髄、仏教ではあり得ません。  

T0738_.17.0542b24ページ に:佛言。吾般泥洹後。當有五逆惡世。當斯之時眞丹土域魔事當盛。閉塞正道。  

仏説分別経には上記のように像法時代に 支那域が魔道に染まると説かれています。 更に末法時代には最悪となると阿難に答えています。

その原因の一つに、 「無復學問坐禪行者」 との言葉が前ページに書かれています。

座禅行者は何も学ばない、つまり支那発生の座禅からは何も学べないと釈迦は言っているのです。

それでも勝手に座禅するのは自由です。 

禅(宗)は経文を捨て(釈迦を離れ)、道理を追求して独自の生きる道を求める事です。
坊主すら仏教の一部と思っている人が多いのですが、仏教の一部と勘違いする事は、禅にとっては恥なのです。

支那域で像法以降に発生した仏教書を拠り所として学ぶ事は インドカレーを中華味にして食べる事と同じだと、ブログの初期から書いて来ましたが、分別経に出会って、その感覚が正解だと知りました。 

それ以来自分は 中華魔道 という造語にそれを表しています。 

22 大涅槃経  金光明経2

2017/06/08、2016/07/11(調整) 2016/06/19(公開)

22  大涅槃経 


引用    大涅槃経に云く「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」等云云


書簡    開目抄上  108


先ず、「大涅槃経」 がどの経を指すのか、 日蓮聖人はこの他に「涅槃経にいわく」という引用を数多く書いていますが、この「大涅槃経」とその涅槃経とは別の様ですので、涅槃経の方は別項を立てます。

今回の「大涅槃経に云く「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」」の文は

摩訶止觀 (1911) 46.0077a29:ページの 「大經云一切世間外道經書皆是佛説非外道説」 の文に基づくものであって、経文には見当たりません。

止觀は大經云と書いていますが、日蓮聖人は「大涅槃経に云く」としてそれを引用しています。

日蓮聖人の「大経いわく」は、大般涅槃經を指している事は、シリーズ17の「大経」の項に書きましたが、ここでは「大般涅槃經」に存在しない言葉を天台智顗が止觀に書いています。

同様の事例は、次の金光明経の引用にも見られますが、智顗の捏造か、それとも智顗も経文を確かめずに、誰かに教わった、または経疏のままを書いているか、そのどちらかです。


全ての外道の説も、仏説だと釈迦は云うでしょうか。 

ならば外道を区別する必要はない訳で、何故このような文章が支那にはあるのか、
やはり魔道に犯された支那仏教の実例と思わざるを得ません。

とにかく、細かく調べれば、同様の例がたくさん出て來るので、いやになります。



金光明経


引用    天台云く「金光明経に云く 一切世間所有の善論皆此の経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」等云云、


書簡    開目抄上 109

元文は これも止観で、 46.0077b01ページの 「 佛説。非外道説。光明云。一切世間所有善論。皆因此經。若深識世法即是佛法」 です。



天台は「光明云」と書いていますが、開目抄上では、"天台云く「金光明経に云く一切世間所有の善論皆此の経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」等云云、と、しています。

これも前述の「外道の設も仏説」との内容を 別の言い廻しで「世法は仏法」だ と言っています。

諸法の実相は全て仏法=自然法に依って構築された成果物ですから、上記の意は間違いとは言いません。
しかし 「金光明経にいわく」と書いた以上は その文が金光明経に存在しなければ嘘になります。

天台は「光明云」と書き、それを日蓮聖人が金光明経と書いたのは間違い無い筈ですが、金光明経にはこの言葉は存在しないのです。

よく経疏を観ると、天台智顗は経に存在する言葉と、そうでない言葉を、光明と金光明とに使い分けているようです。

光明云は止観に二か所有ります。いずれも金光明経にはない言葉の引用であり、玄義・文句・止観とも、金光明経に実在する言葉の引用の時は 「金光明云」 としています。

元の経文をチェックしなければ判らない事ですので、智顗はそういった仕掛けを楽しんでいるようにも見えます。 





23 悲華経 付法蔵経 仏蔵経

2016/06/20 (公開)

23  悲華経   付法蔵経   仏蔵経


悲華経

引用1    悲華経に云く我が滅度の後末法の中に於て大明神と現じて広く衆生を度せんと文。

引用2    悲華経に云く第五百願に我来世穢悪土の中に於て大明神と現じて当に衆生を度すべし文。



書簡    一代五時継図  (上記二引用共) 110,111


悲華経 (No. 0157)という経は存在するが、該当の文章は無い。

 上記の引用「悲花經云 現大明神廣度衆生云云」は、天台宗の 溪嵐拾葉集 (2410) にのみ見られる言葉だ。 

 「悲花經云 現大明神廣度衆生云云」   (76.0511b26ページ)
 つまり天台宗で学んだ時にノートしたと思われる。

「現大明神」(大明神が現れる)という言葉も概念も、経文には存在しません。
 
唯一 「大明神力」という言葉が 「無能勝大明陀羅尼經 (1234)」 に見られますが、それは「神力」を表した言葉であって、「大明神」 という神は、仏教経典には現れないのです。

したがって 溪嵐拾葉集 にやたらと出て來る「大明神」 は 極めて日本的な解釈で、

溪嵐拾葉集の「天竺ハ佛生國也。震旦ハ彌佛國也。日本神國也。故ニ國ハ神明化導盛也」 という言葉に続けて、故に悲華経にいわくと上記の引用文が続くわけですが、 殆ど仏教とは言えないローカライズされた解説です。

このように、経典に無い言葉をでっち上げて解説を付ける事例が天台には多く見られるのです。

しかし日蓮聖人は原典の経文をチェックしていませんので、天台をそのまま信じたのでしょう。

このブログを読んだ人は、原典に当たる事の大切さを知ってください。



付法蔵経


引用     付法蔵経に記して云く「我が滅後一百年に阿育大王という王あるべし」


書簡     開目抄上 112


「付法藏經」の名前だけは佛名経にもリストされてあり、論疏にはその名がたくさん見られるのですが、経そのものが大正蔵経に記載が在りません。

また、同じものかとされる「付法藏傳」という名は 四巻或いは、六巻、七巻という記が、中国仏教史に観られます。

しかし双方とも名前ばかりで、その内容はないのでチェックは不能でした。

引用の文が 開目抄のみにしか見当たらないので ?? マークとせざるを得ません。



仏蔵経 引用に見る超省略


引用    仏蔵経に云く「大荘厳仏の滅後に五比丘あり一人は正道を知つて多億の人を度し四人は邪見に住す此四人命終の後阿鼻地獄に堕つ   ー以下略ー


書簡    守護国家論 113


実際の経文はT0653_.15.0794c29:ページから:

「 舍利弗。大莊嚴佛及大弟子滅度之後。 漸多有人 知沙門法 安隱快樂出家學道 而不能知 佛所演説 甚深諸經 無等空義。多爲惡魔之所迷惑。時説法者心不決定説不清淨。説有我人衆生壽命。不説一切諸法空寂。
其佛滅度百歳之後。諸弟子衆分爲五部。一名普事。二名苦岸。三名薩和多。四名將去。五名跋難陀。」

(此処までの長い文章が 「大荘厳仏の滅後に五比丘あり」 と略されています。  更に

「舍利弗。此普事比丘。苦岸比丘。薩和多比丘。將去比丘。跋難陀比丘。是五比丘爲大衆師。
其普事者 知佛所説眞實 空義無所得法。 餘四比丘皆隨邪道。多説有我多説有人。"

舍利弗。普事比丘。爲四部所輕無有勢力多人惡賤。四惡比丘多教人衆以邪見道。
於佛法中不相恭敬。相違逆故以滅佛法。

舍利弗。若有人知普事比丘所説空法信受不逆。
我知此人曾於先世供養五千佛。有六十八億那由他人已入涅槃。

何以故。舍利弗。此人於過去世諸佛所種諸善根。
修習無所得空法應入涅槃。
舍利弗。是苦岸比丘。一切有比丘。將去比丘。跋難陀比丘。
皆計有所得。説有我人衆生壽命徒衆熾盛。

是四惡人多令在家出家住於邪見。」

此処までの長い文が (一人は正道を知つて多億の人を度し四人は邪見に住す) と略され、

「捨第一義無所有畢竟空法。貪樂外道尼揵子論。
舍利弗。是四惡人。所有在家出家弟子。常相隨逐乃至法盡。

舍利弗。是中有人知非法事。受以爲法勤心行之。猶尚不得順忍。
況得須陀洹果。是人猶尚不作消供養事。何況能生順忍。

舍利弗。爾時在家出家弟子。多墮惡道不至善道。是諸惡人滅佛正法。
亦與多人大衰惱事。

又是惡人命終之後。墮阿鼻地獄。」

この文章が (此四人命終の後阿鼻地獄に堕つ) と略されたのです。


文字数で単純に比較すると 512文字の経文が 51 文字、 1/10 に短縮されています。


この後もこの調子で、経文は長々と続くのですが、 日蓮聖人は 思いっきり端折って引用しました。 
間違いとは言いませんが、正解とするにも し難いです。

原点に当たると 時々こういう面白い事にも出くわします。


法滅尽経の例のように、「趣意」の断り書きが無く、余りにも端折り過ぎなので??マークをしたもので、こういう事もあるという事例の一つを紹介しました。  





24 法鼓経 法滅尽経 摩耶経

2016/11/12(加筆) 2016/06/21(公開)

24  大法鼓経 法滅尽経 摩耶経  



大法鼓経


引用    法鼓経に云く黒衣の謗法なる必ず地獄に堕す文。

書簡    一代五時継図 114



正式には 大法鼓經 (0270) です。

大法鼓経は 「黒衣」 について全く語っていません。 

つまり、引用の文の出所は分かりませんが、 引用の文章は  です。




法滅尽経


引用    法滅尽経に「法滅尽の時は狗犬の僧尼恒河沙の如し」等云云[取意]


書簡    曾谷入道殿許御書 115


佛説法滅盡經 (0396) に「狗犬」「僧尼」という言葉は出て来ません。 

佛説法滅盡經は880文字程度の小さな経で、簡単に読めます。 
色着きの袈裟衣を着けている人にとっては、読む事は、堪えがたい恥でしょうが。

「狗犬」は多くの経に登場しますが、 は釈迦の経に「狗犬の様な僧尼」 という意味を導く使われ方は全くされてはいません。

いくら 「趣意」 とは言え、 間違いというか、捏造経文に基づく引用と言うべきでしょう。



摩耶経 


引用    摩耶経に云く「我が滅後六百年に竜樹菩薩という人南天竺にに出ずべし」

書簡    開目抄上 116


正確な経名は 「摩訶摩耶經 (0383)」  で、経には

「七百歳 已有一比丘名曰龍樹善説法要滅邪見幢然正」 とあります。 

摩耶経を引用したなら、「滅後600年」と書くことはあり得ません。


日本天台の、「溪嵐拾葉集 (No. 2410)」の説明では、

「𣵀槃疏云。六百年ニ馬鳴出。七百年ニ龍智等云云」 (76.0797b11ページ) と、

六百年代に馬鳴、七百年代は竜樹とはあリますが 経は 「摩耶経」ではなく「涅槃疏」だとしています。 

依って 天台も日蓮聖人も 経その物を読んでいないと断定する事が出来ますが、日蓮聖人の引用文は 天台教学を学んで、摩耶経とミックスして覚えているように思えます。

「六百年」説は 「定宗論 (2369)」に見られます。
 「 筆主以佛滅後六百年中龍樹爲華嚴宗」

只、支那では、竜樹の寿命は三百年とも云われていますので、700年代の前後100年説が出る事はあながち不正解とは言えないのかもしれません。

ですが、私の判定は、X です。  経文、摩耶経にこうあると書いた以上、それがなければ間違いなのです。  経を読んでいれば起こり得ない間違いなのです。







25 蓮華三昧経 六波羅蜜経   仏蔵経  報恩経

2016/06/23 (公開)


蓮華三昧経  

引用   蓮華三昧経に云く「本覚心法身常に妙法の心蓮台に住して本より来た三身の徳を具足し三十七尊[金剛界の三十七尊なり]心城に住したまえるを帰命したてまつる心王大日遍照尊心数恒沙諸の如来も普門塵数諸の三昧因果を遠離して法然として具す無辺の徳海本より円満還つて我心の諸仏を頂礼す」、

書簡   八宗違目抄 117


先ず、「蓮華三昧経」 という経は大正蔵経にはないので、存在するのかという事で、別名を探す殊になりました。

即身成佛義 (No. 2428 空海) に .77.0389a15ページに: 「無障礙經云 名蓮華三昧經 歸命本覺心法身。常住妙法心蓮臺」 と、「蓮華三昧経と名づく」 の言葉がありました。 

また、溪嵐拾葉集 (2410)には 76.0820a02: 蓮華三昧經云 無障礙經云 歸命本覺心法身」 とあります。 

即身成佛義 と この溪嵐拾葉集 の 「蓮華三昧經云 無障礙經云」の文から  無障礙經を蓮華三昧經と名づく、との事らしく、 一応、無障礙經云が蓮華三昧經 であるとします。

如意輪陀羅尼經 という経のタイトルの注釈に 「此の經は 「大蓮華金剛三昧耶加持祕密無障礙經」から出た」 (T1080_.20.0188b18 ページ) とあります。

どうやら二つの名は元々長い名の経なので、頭かしっぽの部分で呼ばれたようです。
しかしながら大正蔵経には 「大蓮華金剛三昧耶加持祕密無障礙經」という経もありません。

また如意輪陀羅尼經には 「本覚心法身」も「三十七尊」という言葉も在りません。

全体的に観ても、「歸命本覺心法身常住妙法心蓮臺」の文言は いわゆる釈迦の経文では無く、経疏の中にのみ存在する言葉です。

溪嵐拾葉集 (2410) には 76.0592c15ページ他 二か所に「帰命本覺心法身常住妙法心蓮臺」の言葉がありますので、 日蓮聖人の引用は、比叡山での修学中に記録した言葉かと思われます。

経文中に存在しない言葉の引用ですので、評価は X です。



六波羅蜜経

日蓮聖人は六波羅蜜経いわくと、数回引用していますが、いずれもまちがいでした。


引用1      六波羅蜜経に云く「所謂過去無量の諸仏所説の正法及び我今説く所の所謂八万四千の諸の妙法蘊なり

書簡      法華真言勝劣事  118


引用 2    六波羅蜜経に云く「所謂過去無量の諸仏所説の正法及び我今説く所の

書簡   開目抄下  119


六波羅蜜経の正式名は 「大乘理趣六波羅蜜多經」 (0261) で般若部の最後の経です。 

その経中の言葉には「過去無量殑伽沙」の「諸仏所説正法」との文字が使われ、
「恒伽沙」では検索できませんので、最初は X としていました。

経を読んでいくうちに「殑伽沙」の文字で書かれているのをを見つけました。

この引用にはその恒河沙が略されているので、 まだ?評価です。


「所謂 過去無量諸佛 所説正法」 という言葉は、
 
辨顯密二教論 (2427) , 選擇本願念佛集 (2608) , 選擇傳弘決疑鈔 (2610) 、黒谷上人語燈録 (2611) 等 に使われている言葉です 

引用     六波羅蜜経に云く「所謂過去無量恒伽沙の諸仏世尊の所説の正法

書簡   真言見聞  120

これは正解例で、正しく引用する物とそうでなく引用する事があるようです。


仏蔵経

引用     仏蔵経に云く「仏一切衆生心中に皆如来有して結跏趺坐すと見そなわす」文。

書簡      八宗違目抄   121


「佛見一切衆生心中皆有」という言葉は、仏像経 には無し。

止觀輔行傳弘決  (No. 1912 湛然述 )と菩薩圓頓授戒灌頂記 (2383)にのみ在るが、

菩薩圓頓授戒灌頂記は 佛蔵ではなく釋引經云としていて、支那に於いても出所は不明だったようだ。

いずれにしても X 評価であある。



報恩経     大方便佛報恩經 (No. 0156 )


引用    第五に人道とは報恩経に云く「三帰五戒は人に生る」文

書簡   十法界明因果抄  122


「三帰五戒は人に埋まる生まる」との言葉は無い  報恩経の三帰五戒の使い方は違う


26 涅槃経 1

2016/06/25 (公開)



  26 涅槃経 1



さてここからは多くの書簡に、「涅槃経に云く」 と引用された最後の経文群からの誤りを指摘する。

涅槃経にはいくつものバージョンがあるが、日蓮聖人が涅槃経に云くとして使用している涅槃経は

「大般涅槃經」だが 大正蔵経には 番号374と375の2経がある。

日蓮聖人は天台がそうだからか、374の(曇無讖譯) を使っている。 

経番断定の根拠は、守護国家論 に引用された「涅槃経に云く「若し衆生有つて熈連河沙等の諸仏に於て菩提」云々である。  

熈連河沙は恒河沙の事で、374には活字が無いものが多く、画像で代用しているので、検索にはかかり難いので、375も同時にチェックすると良い。 


大般涅槃經
(0374) はT0374_.12.0398c07:  於熈連河沙等諸佛所 發菩提心
(0375) はT0375_.12.0639a21:  於一恒河沙諸如來所 發菩提心

「熈連河沙等の諸仏」 は 374 (曇無讖譯) の表現で、 375の(慧嚴譯)では 「仏」を「如来」と表現している。

日蓮聖人の引用は「熈連河沙等の諸仏」だから 曇無讖譯を使用していた事が判る。

さて 引用の誤り例だが、


引用    涅槃経に云く「一切衆生大乗を信ずる故に大乗の衆生と名く 

書簡    当体義抄 123



引用の文は経には無い

涅槃経内で「大乗と名付」けられたのは次の2つのみ、

大般涅槃經 (0374) 384a25:ページの 「爲護正法 乃名大乘」 と
0387b05ページの: 「是名大乘 大涅槃中因縁義也」 だけだであって、 「大乗の衆生」は無い。




引用    涅槃経に云く「聖人に難を致せば他国より其の国を襲う」と

書簡    呵責謗法滅罪抄 124



涅槃経には 「襲」うという文字が使われていないし、他国に就いて語られたのは 農作が好調、とか 遇惡風雨寒苦、若しくは他国から逃亡する事がある、という例だけだ。

攻めたり襲われる等は書かれていない。

引用の元は、捏造の類である。



引用    涅槃経に云く「大地の上に針を立てて大風の吹かん時大梵天より糸を下さんに糸のはしすぐに下りて針の穴に入る事はありとも、末代に法華経の行者にはあひがたし」

書簡    妙法比丘尼御返事[亡夫追悼御書] 125


引用文の話は全く涅槃経には出てこない。  これも引用元は捏造経疏の類であろう。 

涅槃経に大梵天王は何度か出て來るが、糸を下すの例えは全く無い。

涅槃経に出て來る糸に関する話は 藕根絲懸須彌山 と、「須弥山に百合の根の糸を懸ける」事は考えられようか?という言葉に一度でて來るだけだ

日蓮聖人は 何を根拠にここに挙げた3例を 涅槃経に云と書かれたのか,まったく不明である。

次回も理解に苦しむ 超々省略再構成経文 = 捏造? の例が続きます。


27 涅槃経 2

2016/06/27 (公開)

27 涅槃経 2


引用    涅槃経に云く「若し是の経典を信ぜざる者有らば 若は臨終の時或は荒乱に値い刀兵競い起り帝王の暴虐・怨家の讎隙に侵逼せられん

書簡    災難対治抄 (1260年) 126


大般涅槃經 (0374) 若有不信是經典者 現身當爲無量病苦  之所惱害。多爲衆人所見罵辱。命終之後人 所輕賤顏貌醜陋。資生艱難常不供足雖復少 得麁澁弊惡。 生生常處貧窮下賤 賤誹謗正法邪見之家 若臨終時或値荒亂刀 兵競起帝王暴虐怨家 讎隟之所侵逼 12.0399a23ページ~)


「若し是の経典を信ぜざる者有らば」の後に続く
「現身當爲無量病苦  之所惱害。多爲衆人所見罵辱。命終之後人 所輕賤顏貌醜陋。資生艱難常不供足雖復少 得麁澁弊惡。 生生常處貧窮下賤 賤誹謗正法邪見之家」が 無視されて、
「荒乱に値い刀兵競い起り帝王の暴虐・怨家の讎隙に侵逼せられん」 に続ける事で、
れている。 

経文はもっとひどい、劣悪な状況を、強烈表現の言葉で表し、そこに生まれたり、若しくは臨終のときに過酷な状況に遭う、 という事 だから「この経典(大乗経)を信じなければ、酷いことに合う」 と言っているわけではない。 
経は大乗経を信じなければならないという話の流れで、その一部に上記の文がある。 

災難対治抄は、「何ぞ選択集を信ずる謗法者の中に此の難に値わざる者之有りや」 という疑念を設定したうえで、それに対して、幾つかの経から、都合の良いところだけをピックアップして答えとしたものだ。 

三十九歳の日蓮聖人は血気盛んで、どんどん他宗殲滅を訴えていた頃だから、多少強引な経文の使用もあったのだ。

経文の前後の流れを無視して、「若は臨終の時xxxx」に繋いだのは、ご都合主義的引用と難を云われても仕方ないだろう。



次の2例は、もっと酷いなと思われる 言い換えと もはや捏造例とさえ言える省略である。



引用    涅槃経に云く末代に入りて人間に生ぜん者は爪上の土の如し
       三悪道に堕つるものは十方世界の微塵の如しと説かれたり、

書簡    顕謗法抄 (1262年)  127

  
引用は一文だが、元々の経文は前半部分と後半部分が続いていない

前半の「如爪上土」の言葉は

大般涅槃經 (0374)では


 2.0563a27~:具足正信能修習道。修習道已能得解脱。得解脱已能入涅槃 如爪上土。"

2.0563b06の 不作一闡提不斷善根。信如是等涅槃經典。如爪上土

である
この国に生まれて、正しく解脱して入涅槃を得る者は、爪の上に乗る土の量のように少ないという事で、末法に入って人間に生まれる者は、爪の上に載せられる土の量ように、ごく少数だ、という解釈は,読み過ぎである。

日蓮聖人自身、十年後の真言諸宗違目(1272年)には オリジナル経文を正確に引用して、

「涅槃経に云く「爾の時に世尊地の少しの土を取つて之を抓の上に置いて迦葉に告げて言わく
是の土多きや十方世界の地土多きや、 

迦葉菩薩仏に白して言さく世尊抓の上の土は十方所有の土の比ならざるなり。
四重禁を犯し五逆罪を作して、一闡提と作して、諸の善根を断じ 是の経を信ぜざるものは十方界所有の地土の如し。
五逆罪を作さず、一闡提と作さず、善根を断ぜず、是くの如き等の涅槃経典を信ずるは抓の上の土の如し」等云云、 経文の如くんば当世日本国は十方の地土の如く日蓮は抓の上の土の如し。」

と書いているから、単純に末法に生まれるのは難しいという意味合いではない事は、知った筈だが、嘗て顕謗法抄に書いた引用の元だったとは、気づかなかった事もあり得る。

若い時分にはいったいどの経疏を使用したやら、全く不明だが、 それにしても元の経典とのニュアンスの違いが甚だしい。

引用の後半に付けられた文だが、 涅槃経には三悪道の言葉はあっても、十方世界の微塵の如しは ン? だ。
この文を何処の経文から引いたのか不明だ、思想の形成期に誤った経疏を使用していた事は 自ら認識することなく、その後の生涯を通じて禍根を残した事になるだろう。





28 涅槃経 3

2016/06/29  (公開)


28 涅槃経 3


引用    涅槃経に云く「内には智慧の弟子有つて甚深の義を解り外には清浄の檀越有つて仏法久住せん 
 
書簡    曾谷入道殿許御書[五綱抄] (1273 54歳) 129



法華文句記  T1719_.34.0353c19~c20: 有人引大經中内有弟子解甚深義。不爲利養不生諍競。外有清淨檀越。佛法久住   (No. 1719 湛然述)

内には・外には、 これは法華文句記 ((No. 1719 湛然述)  湛然述 の言葉である。

実際の涅槃経の文と比較して、その大意に於いては間違いとは言えないかも知れないが、
実際の経を読んだ者にとっては都合良いところを探して端折り過ぎた、と言わざるを得なくなる。

実際の経文は

12.0472c23ページ~: 善男子若佛初出得阿耨多羅三藐三菩提已。
未有弟子解甚深義。彼佛世尊便涅槃者。當知。是法不久住世。

復次善男子。若佛初出得阿耨多羅三藐三菩提已。
有諸弟子解甚深義。佛雖涅槃。當知。是法久住於世。

復次善男子。若佛初出得阿耨多羅三藐三菩提已。
雖有弟子解甚深義。無有篤信白衣檀越敬重佛法佛便涅槃。當知。是法不久住世。

復次善男子。若佛初出得阿耨多羅三藐三菩提已。
有諸弟子解甚深義多有篤信白衣檀越敬重佛法。佛雖涅槃。當知。佛法久住於世

復次善男子。若佛初出得阿耨多羅三藐三菩提已。
有諸弟子解甚深義。雖有篤信白衣檀越敬重佛法。而諸弟子演説經法貪爲利養。不爲涅槃佛復滅度。當知是法不久住世
この先も 有諸弟子解甚深義 の後にいろいろな条件・環境によって法の久住か不久住となるかが、 延々と巻十八の終わりまで、語られている。


日蓮聖人は涅槃経を読まずに、 法華文句記 の 湛然述 の分をそのまま拝借している。
此の分を読む曾谷入道は、涅槃経にはそう書いてあるのだろうと思い込むが、釈迦の教えのニュアンス迄はイメージする事は出来ない。 

先のブログ17番での大経=大般涅槃経 を取り上げましたが、 この法華文句記の「有人引大經中」の文章で気づくのですが、 大般涅槃経 を 湛然が 大経 と書いていたのです。 

先にブログ22の大涅槃経にも書きましたが、摩訶止觀も: 大經云と、そのまま引用しています。
頭に大の字の着く大きな経は他にもありますが、支那では大(般)涅槃経を「大経」と呼んでいたのですね。




引用    涅槃経に云く「善友を遠離し正法を聞かず 悪法に住せば 是の因縁の故に沈没して阿鼻地獄に在つて、受くる所の身形縦横八万四千由延ならん」と

書簡    立正安国論  130


この引用文の元になる部分を涅槃経の中から探します。

是人爾時遠離善友不聞正法 雖時得聞不能思惟雖復思惟不思惟 

という言葉が 12.0575a03ページに在りました。

そして 阿鼻獄に在って体形が 縦横八万四千由延 という大きさになると言う言葉も、

能作種種非法之事是因縁故 沈沒在於阿鼻地獄 所受身形縱廣八萬四千由旬 
 (0374)0575a27ページに在ります。


その間の経文、行番号 a03 ~a27 が、「悪法に住せば」 と一言になる訳でしょうが、実際の経文は 以下の通りです。

是人爾時遠離善友不聞正法。

雖時得聞不能思惟。雖復思惟不思惟善。不思善故如惡法住。

惡法住者則有六種。一者惡。 二者無善。 三者汚法。 四者増有。五者惱熱。六者受惡果。
是名爲沒。何故名沒。 無善心故。常行惡故。不修對治故。
是名爲沒。所言惡者。聖人呵責故。心生怖畏故。善人遠離故。
不益衆生故。是名爲惡。言無善者。能生無量
惡果報故。常爲無明所纒繞故。樂與惡人 爲等侶故。
無有修善諸方便故。其心顛倒 常錯謬故。是名無善言。
汚法者。常汚身口故。汚淨衆生故。増不善業故。遠離善法故。是名汚法。
言増有者。如上三人所行之法。能増地獄畜生餓鬼。不能修習解脱之法。
身口意業不厭諸有。是名増有。
言惱熱者。是人具行如上四事。 能令身心二事惱熱。遠離寂靜則名爲熱。
受地獄報故名爲熱。燒諸衆生故名爲熱。燒諸善法故名爲熱。
善男子。信心清涼是人不具。 是故名熱。
言受惡果者。是人具足行上五事。死墮地獄餓鬼畜生。
善男子。有三惡事復名惡果。一者煩惱惡。二者業惡。三者報惡。
是名受惡果報。

善男子。是人具足如上六事。
能斷善根作五逆罪。能犯四重能謗三寶用僧鬘物。能作種種非法之事。
是因縁故沈沒在於阿鼻地獄。所受身形縱廣八萬四千由旬。

悪法に住すと入っても六種あったり、其上で五逆在をなして善根を断じ云々と、いろいろの因縁があって、阿鼻地獄に沈み、バカでかい体形になると書かれているのです。

安国論を受け取った 宿屋入道は多分そのような事は知らなかったと思うので 端折り過ぎはいけません

「悪法に住せば」 と一言にしても、間違いとは言いませんが、 若いころの論は こういうエイヤッと勢いで途中を略して、都合よく纏めてしまう事が多いようです。