2016年5月26日木曜日

11 「華厳経」 2 天台の呆れた捏造

2018/4/7(改編) 2016/07/19(加筆調整)  2016/06/03 (公開)

11  華厳経 2 呆れた捏造


引用   華厳経に云く「究竟して虚妄を離れ 染無きこと虚空の如し」 

書簡   如来滅後五五百歳始観心本尊抄 76


引用の例文は全くの捏造で、天台系が普段使わない60巻ものの華厳経にしかない言葉を組合せた造語です。

初發心菩薩功徳品第十三 の言葉にある
       無著無所依 無染如虚空   T0278_.09.0453c01ページ:  と     
  究竟離虚妄   清淨眞法身  T0278_.09.0458a03ページ:   
ですが、
ページをよく観れば判りますが、一つの文章の言葉ではありません。

無染如虚空から究竟離虚妄までの間には、大正蔵経の4ページ分、3780文字、壽量品の1.6倍もの経文が長々と在って、その内容は無視されているのです。 

更にその前後を逆にしてつなぎ、「究竟して虚妄を離れ 染無きこと虚空の如し」と、一言にしています。 
普通論文ではこのように引用する事はあり得ず、問題というより捏造でしょう。

極端に例えると、 

自我得佛来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇 と 堕於悪道中 、
これらの言葉は一文ではありませんが両方とも壽量品に存在する言葉です。 それをひっくり返しにつなげて、

「堕於悪道中 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇」 として、壽量品に書いてあると言うのと同じです。

経文に出て來る離れたフレーズの前後を反転させ、それをつなぎ合わせて創られた用語ですが、妙法蓮華經玄義を見てか、日蓮聖人はそれをそのまま信用して使用したのだろうと思われます。

この観心本尊抄は、自問自答形式で書かれており、「究竟して虚妄を離れ  染無きこと虚空の如し」という言葉は問の中の言葉です。 だから日蓮自身の言葉ではないと、そのように反論する人はあるかも知れません。

旅客と主人の問答形式で書かれた「立正安国論」以来、自問自答形式は日蓮聖人の論書の特徴で、日蓮聖人自身が想定した問答で持論を説明する、ずっと用いられている形式です。

この書簡での問いも、自論の正当性を答えとして書くための設問である事は、書簡を読めば明らかです。 実際に受けた質問なら、問者の名も書くでしょう。 

日蓮聖人は妙法蓮華經玄義 T1716_.33.0734b16~17の、「究竟離虚妄 無染如虚空」を引用したと思われますが、智顗は同文を維摩經玄疏にも (1777) 0547b24-0553x01: 法華嚴經云 究竟離虚妄 無染如虚空 故知一切思量分別憶想 と使っていますので、そちらかも知れません。
何れにせよ日蓮聖人も華厳経の原典を読んではいない事が見て取れます。

それにしても、華厳経に文を求める事は大変手間のかかる仕事です。
ですから智顗も、まさかバレる事はないと思って捏造したのでしょう。

3千7百文字もの中間の経文の意味を無視して、しかも言葉の順を入れ変えての造語を考えるとは、流石の中華の魔道汚染ではありますが、大変な事でしたでしょう。 
でも、自分のようにちゃんと経文を読む人には、嘘はすぐにバレてしまうのです。




引用     華厳経に云く「衆生界尽きざれば我が願も亦尽きず」等と云云 

書簡     爾前二乗菩薩不作仏事 77

諸経が二乗作仏を許さずという事を言いたい為にいろいろ経文を探されたのでしょうが、探した元が経ではなく、諸宗の参考書からだったようです。

「衆生界尽きざれば我が願も亦尽きずと類似の華厳経の文は これも60巻版の経にのみ存在する文章で、

華嚴經の原文は(0278) 0182b18ページの: 若衆生界盡我願乃盡

です。  見た通り、これは肯定文であって、前後の文には「不盡」の言葉は在りません。


日蓮聖人の引用は否定文になっていますが、それは法華経玄賛 (1723)  34.0847a21ページの

盡我願乃盡如是衆生界不盡我願亦不盡 そのものです。 

日蓮聖人は、60巻物のオリジナルの華厳経は読んでいないのであろう事が判ります。



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