2016年5月25日水曜日

18 大集経 捏造?

2016/10/13 (改編) 2016/06/15 (公開)



18  大集経  とされているが捏造経文か


引用     大集経に云く五箇の五百歳の後に無智無戒なる沙門を失ありと云つて是を悩すは
此の人仏法の大燈明を滅せんと思えと説かれたり、

書簡     四恩抄  99


「大集経に云」で検索しますと15の書簡に、18回程の引用が在って、中には同文の繰返し使用もあります。

大集経(だいしっきょう)という経名は 立正安国論に華々しく引用されましたので、自分には大変印象深い経名でした。 
そこで読破をトライしましたが、読むには大き過ぎるし、内容にもあまり個人的な興味がそそられなかったので、全巻踏破はその内に~ で、そのままです。 

とは言え、必要なところは全てチェックしています。  

処で、「無智無戒」 ですが、この使い方は経文にはありません。 
「無戒」の言葉の使用も、経文には少なく、大集経には存在しない言葉です。 

「滅大燈明」もまた存在しない言葉です。

日蓮聖人は何を見てこれを書いたのか、大蔵全体にも原典を見つける事は出来ませんでした。

2016/07/09 (文章調整)


引用     大集経に云く「頭を剃り袈裟を著くれば持戒及び毀戒も天人供養す可し
        則ち仏を供養するに為りぬ」云云、

書簡     出家功徳御書  100


この文は立正安国論にも使用されている文です。

経文は   剃頭著袈裟 持戒及毀禁 天人所供養 常令無所乏
        
 如是供養彼 則爲供養我 若有爲我法    (T0397_.13.0379c10~13)
     
ですので、引用は正確ではありませんが、内容的には一応正解とします。

ちなみに、大方廣十輪經(T0410_.13.0693c20:) にも

「佛言。善男子。若諸比丘佛法出家剃除鬚髮 披著袈裟。一切天人阿修羅皆應供養」 とあります。 
但し、経文は「若護持戒不應 謫罰閉繋 兀其手足 乃至奪命 悉無是法。」と続いていますので、
一寸でもサボろうものなら、無事には済みません。 
手足をもがれるか、殺されるかも知れないのです。

ですから、経文を読み込んだ者なら、出家僧が持戒であっても破戒僧であっても天人は供養する、などと脳天気な意味に取る事には、少し抵抗を感じるのです。

大集経の前段の経文13.0237b19:~は 当初は余りまじめでない僧、五比丘について、

「僧大修精進。棄捨世間所有諸事。惟希出世涅槃之道。所有功徳無量無邊。」という前条件があって、 そうであれば それは「是大福田。」となる。
だから、「應受世間」、 世間が受け入れて 而して「天人も供養」する
と言っているのです。 


だから国王は「是故大王。 汝等 應好 擁護 如法安置」 しなさいと続きますが
その前後の文には それが「則ち仏を供養するに為りぬ」とは、決して言われていないのです。

更に仏と王は 破戒僧に就いて語り合い続けます。 そこで仏は
、
「是因縁諸佛如來之所棄捨。非佛弟子 是魔眷屬。常趣惡道不墮僧數」

と、破壊の僧は仏の弟子ではなく魔の眷属 だと言っています。

経文からは坊主のコスプレを着けただけで天人が供養するとは、全く取れないのです。

経を読みこめば日蓮書簡の引用はご都合主義、間違いである事が判る筈です。


日蓮聖人は経文を全て読んだ上で 「頭を剃り袈裟を著」けてさえいれば、持戒だろうと毀戒だろうと 仏を供養する事になるから天人も供養する などと解したのでしょうか。

最初は安国論に引用し、晩年の出家功徳御書にまで、この過ぎた解釈を保ち続けています。

自分は 中華魔道の参考書からの影響ではないかと思っています。

正法眼蔵のに「佛言ハク。剃頭;著スレハ袈裟ヲ。諸佛ニ所レ加護セ。一人 出家スレハ者。天人ニ所ル供養セアキラカニシリヌ。2582_.82.0054a29」 とあるのは、袈裟を大事にする心からだと読めますが、そこにも、経の都合よい処だけをピックアップした支那仏教の影響は見てとれます。

仏教を学ぶ皆さんは 自分の目でオリジナルの仏説をちゃんと前後の文章までチェックしてください。

このように自分がブログで申しているのは、上記のような捏造経文では?とか、ご都合解釈では?と思われる例を複数見つけているからです。





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