2016年5月25日水曜日

27 涅槃経 2

2016/06/27 (公開)

27 涅槃経 2


引用    涅槃経に云く「若し是の経典を信ぜざる者有らば 若は臨終の時或は荒乱に値い刀兵競い起り帝王の暴虐・怨家の讎隙に侵逼せられん

書簡    災難対治抄 (1260年) 126


大般涅槃經 (0374) 若有不信是經典者 現身當爲無量病苦  之所惱害。多爲衆人所見罵辱。命終之後人 所輕賤顏貌醜陋。資生艱難常不供足雖復少 得麁澁弊惡。 生生常處貧窮下賤 賤誹謗正法邪見之家 若臨終時或値荒亂刀 兵競起帝王暴虐怨家 讎隟之所侵逼 12.0399a23ページ~)


「若し是の経典を信ぜざる者有らば」の後に続く
「現身當爲無量病苦  之所惱害。多爲衆人所見罵辱。命終之後人 所輕賤顏貌醜陋。資生艱難常不供足雖復少 得麁澁弊惡。 生生常處貧窮下賤 賤誹謗正法邪見之家」が 無視されて、
「荒乱に値い刀兵競い起り帝王の暴虐・怨家の讎隙に侵逼せられん」 に続ける事で、
れている。 

経文はもっとひどい、劣悪な状況を、強烈表現の言葉で表し、そこに生まれたり、若しくは臨終のときに過酷な状況に遭う、 という事 だから「この経典(大乗経)を信じなければ、酷いことに合う」 と言っているわけではない。 
経は大乗経を信じなければならないという話の流れで、その一部に上記の文がある。 

災難対治抄は、「何ぞ選択集を信ずる謗法者の中に此の難に値わざる者之有りや」 という疑念を設定したうえで、それに対して、幾つかの経から、都合の良いところだけをピックアップして答えとしたものだ。 

三十九歳の日蓮聖人は血気盛んで、どんどん他宗殲滅を訴えていた頃だから、多少強引な経文の使用もあったのだ。

経文の前後の流れを無視して、「若は臨終の時xxxx」に繋いだのは、ご都合主義的引用と難を云われても仕方ないだろう。



次の2例は、もっと酷いなと思われる 言い換えと もはや捏造例とさえ言える省略である。



引用    涅槃経に云く末代に入りて人間に生ぜん者は爪上の土の如し
       三悪道に堕つるものは十方世界の微塵の如しと説かれたり、

書簡    顕謗法抄 (1262年)  127

  
引用は一文だが、元々の経文は前半部分と後半部分が続いていない

前半の「如爪上土」の言葉は

大般涅槃經 (0374)では


 2.0563a27~:具足正信能修習道。修習道已能得解脱。得解脱已能入涅槃 如爪上土。"

2.0563b06の 不作一闡提不斷善根。信如是等涅槃經典。如爪上土

である
この国に生まれて、正しく解脱して入涅槃を得る者は、爪の上に乗る土の量のように少ないという事で、末法に入って人間に生まれる者は、爪の上に載せられる土の量ように、ごく少数だ、という解釈は,読み過ぎである。

日蓮聖人自身、十年後の真言諸宗違目(1272年)には オリジナル経文を正確に引用して、

「涅槃経に云く「爾の時に世尊地の少しの土を取つて之を抓の上に置いて迦葉に告げて言わく
是の土多きや十方世界の地土多きや、 

迦葉菩薩仏に白して言さく世尊抓の上の土は十方所有の土の比ならざるなり。
四重禁を犯し五逆罪を作して、一闡提と作して、諸の善根を断じ 是の経を信ぜざるものは十方界所有の地土の如し。
五逆罪を作さず、一闡提と作さず、善根を断ぜず、是くの如き等の涅槃経典を信ずるは抓の上の土の如し」等云云、 経文の如くんば当世日本国は十方の地土の如く日蓮は抓の上の土の如し。」

と書いているから、単純に末法に生まれるのは難しいという意味合いではない事は、知った筈だが、嘗て顕謗法抄に書いた引用の元だったとは、気づかなかった事もあり得る。

若い時分にはいったいどの経疏を使用したやら、全く不明だが、 それにしても元の経典とのニュアンスの違いが甚だしい。

引用の後半に付けられた文だが、 涅槃経には三悪道の言葉はあっても、十方世界の微塵の如しは ン? だ。
この文を何処の経文から引いたのか不明だ、思想の形成期に誤った経疏を使用していた事は 自ら認識することなく、その後の生涯を通じて禍根を残した事になるだろう。





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