17 (大)勢至経
引用 勢至経に云く平形の念珠を以ゆる者は此れは是れ外道の弟子なり我が弟子に非ず
書簡 一代五時継図 95
引用 大勢至経に云く「衆生五の失有り必ず悪道に堕ちん一には出家還俗の失なり」、
書簡 出家功徳御書 96
先ず、「勢至経」 「大勢至経」という経は存在するのか、 どの経の事を言うのか、いつも通り類似の経名も探したが、該当する経がない。引用経文も、蔵経中には発見できなかった。
引用文中の「平型の念珠」に就いても、経文には沢山の念珠という言葉が使われてはいても、平型の念珠に関しては見当たらず、どのようなものかも判らなかった。
蔵経中でも平念珠に言及しているのは日蓮書簡だけで、 上記の一代五時継図以外に、種々御振舞御書でも念仏者の平念珠使用について語られている。
ブログ 祇園精舎の鐘の声 に書いたが、念珠の素材としては菩提樹の種を最高としている。
その他に真珠を念珠にした事を称賛している経もある事。基本は丸い玉を、百八個繋げた物で、素材や数に順じて得られる功徳の量も違うようだ。
経と言われるものには、釈迦が真に教えたかった法とは外れた、下らない事に言及されているものが多く在り過ぎる。 そういった経の殆どは、似非経・偽経だと思った方が良い、と自分は判断している。
出家功徳御書に引用された「出家還俗の失」という言葉に似た物としては、
雜阿含經 (0099)02.0284b13ページに: 「謂捨戒還俗 失正法正律」 の言葉があるのみで、ニュアンスも違う。この経文には、悪道に落ちる事は書かれていない。
衆生の五失も経には出てこなかった。 出家いわゆる優婆塞、優婆夷も、衆生の一部ではあるが、多くの衆生が出家するわけではないのに、衆生失の第一が還俗とは成り得まい。
経文に無くて正解、捏造経文だろう。
経文に無くて正解、捏造経文だろう。
大経 (大般涅槃經 (0374))
他にも涅槃経の間違いに就いては最終4回にも掲載しています。
引用 大経に云く「若し邪見なる事有らんに命終の時正に阿鼻獄に堕つべし」と云へり。
書簡 星名五郎太郎殿御返事 97
先ず大経とは何経を指すのか、勉強不足の最初は大般若經か、大集経か、大智度論の事か、等が頭にうかびましたが、引用された文から大涅槃経だという事が知れました。
その後報恩抄に「大経と申すは涅槃経なり」と書かれていることに気づきましたが。
その後報恩抄に「大経と申すは涅槃経なり」と書かれていることに気づきましたが。
日蓮聖人は 「大経」 を21の書簡で24回、涅槃経又は大涅槃経の名で 「大般涅槃經 (0374)」を300回以上使用しています。 大経に云くとしての引用は7回で、それを調査しました。
大経以外の涅槃経の引用に就いて後日紹介しますが 大経の名で使用した7回引用の内、何故か以下の2回は誤りでした。
日蓮聖人の「若し邪見なる事有らんに命終の時正に阿鼻獄に堕つべしと云へり。」と引用しましたが、涅槃経には12.0482c07ページに 「阿闍世王についての「來月七日必定命終」して「堕阿鼻獄」と述べた話は
「阿闍世王は 若し耆婆(伝説的な名医ジーバカ)の言う通りにしなければ、來月七日には必ず落命して阿鼻獄に落ちる」という事です。
邪心による「墮阿鼻獄」の話は、ずっと後の12.0561c21ページの別の話で、
「見已即生惡邪之心。以惡心故生身陷入墮阿鼻獄」で生きたまま阿鼻獄へ墮ちる話です。
日蓮書簡の「例せば彼の苦岸比丘等の如し、故に大経に云く・・・若し邪見なる事有らんに」という話の流れは、涅槃経のアジャセ王の話の趣旨とは、全く異となっています。
引用文はの涅槃経の誤用で、邪心での生きたままの地獄とは意味が違うのです。
したがって判定は 誤り X としました。
引用 大経に云く「薩とは具足の義に名く」等云云
書簡 開目抄上 98
具足の義に名くのが「薩」であると涅槃経に有るかと言えば、否です。
涅槃経には 具足 に就いて、「名具足義」 という言葉がある事はあります。
大般涅槃經 (0374)12.0414a10:ページに
「 離三箭是故名奢沙者 名具足義 若能聽 是大涅槃經」 と言う言葉が在り、
そこまで、自分の力量ではあまり意味の取り切れない説明が並んでいるのですが、
具足義 若しくは能聽(よく聞く事)、 これ大涅槃經なり と言う結論となっています。
「薩」=具足義 という説明は経には在りませんので X としました。
「阿闍世王は 若し耆婆(伝説的な名医ジーバカ)の言う通りにしなければ、來月七日には必ず落命して阿鼻獄に落ちる」という事です。
邪心による「墮阿鼻獄」の話は、ずっと後の12.0561c21ページの別の話で、
「見已即生惡邪之心。以惡心故生身陷入墮阿鼻獄」で生きたまま阿鼻獄へ墮ちる話です。
日蓮書簡の「例せば彼の苦岸比丘等の如し、故に大経に云く・・・若し邪見なる事有らんに」という話の流れは、涅槃経のアジャセ王の話の趣旨とは、全く異となっています。
引用文はの涅槃経の誤用で、邪心での生きたままの地獄とは意味が違うのです。
したがって判定は 誤り X としました。
引用 大経に云く「薩とは具足の義に名く」等云云
書簡 開目抄上 98
引用の文は経に見当たらないので、具足の義は薩? という事で調べました。
具足の義に名くのが「薩」であると涅槃経に有るかと言えば、否です。
涅槃経には 具足 に就いて、「名具足義」 という言葉がある事はあります。
大般涅槃經 (0374)12.0414a10:ページに
「 離三箭是故名奢沙者 名具足義 若能聽 是大涅槃經」 と言う言葉が在り、
そこまで、自分の力量ではあまり意味の取り切れない説明が並んでいるのですが、
具足義 若しくは能聽(よく聞く事)、 これ大涅槃經なり と言う結論となっています。
「薩」=具足義 という説明は経には在りませんので X としました。
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