2017/010/6(改編) 2016/06/30 (公開)
最終回 外経 内経
最終回 外経 内経
引用 外経に云く「奸人朝に在れば賢者進まず」云云、 内経に云く「法を壊る者を見て責めざる者は仏法の中の怨なり」云云
書簡 滝泉寺申状 132
奸人在朝,而賢者隱處 とは 中国古典、先秦兩漢 -> 雜家 -> 淮南子の 泰族訓の9 の最後の言葉です。
賢者進まずでは無く、 賢者隱處す ですから、隠居が進まず、と間違って伝わっていたものと思われます。
後半の 内経に曰く とは仏教系を云うもので、
この言葉い相当する者は 涅槃経の 12.0381a11ぺーじ からの:
「見有破戒壞正法者。即應驅遣呵責擧處。若善比丘見壞法者。置不呵責驅遣擧處。當知是人佛法中怨。」 の意を採って省略したものと思われます。
前半は元のマチガイ、 後半は マ・ しょうがない というところです
此処からは間違いではありません。参考のために知っておいた方が良い物を挙げておきます。書簡 滝泉寺申状 132
奸人在朝,而賢者隱處 とは 中国古典、先秦兩漢 -> 雜家 -> 淮南子の 泰族訓の9 の最後の言葉です。
賢者進まずでは無く、 賢者隱處す ですから、隠居が進まず、と間違って伝わっていたものと思われます。
後半の 内経に曰く とは仏教系を云うもので、
この言葉い相当する者は 涅槃経の 12.0381a11ぺーじ からの:
「見有破戒壞正法者。即應驅遣呵責擧處。若善比丘見壞法者。置不呵責驅遣擧處。當知是人佛法中怨。」 の意を採って省略したものと思われます。
前半は元のマチガイ、 後半は マ・ しょうがない というところです
雙観経
引用 雙観経に云う不取正覚成仏已来凡歴十劫等の文は未顕真実と承伏せさせ給うか
書簡 顕謗法抄
雙観経とは佛説無量壽經 (0360) と佛説觀無量壽佛經 (No. 0365)の二つの観経の総称である。
報恩抄 に 心ハ摩訶般若波羅蜜經 雙觀經ノ肝心ハ佛説無量壽經 とある。
これは 佛説無量壽經 (No. 0360) の
佛言。成佛已來凡歴十劫。其佛國土自然七寶。 云々の言葉と、
佛説無量壽經 (No. 0361) の: 不取正覺 の言葉の合成である。
引用は全くの誤りとは言えないが、360番と361番の二つの別の経から引いた合成語だ
という事を知っておくと良いかと。
大雲経
大雲経に云く「諸経の転輪聖王なり」 守護国家論
大雲経に云く「是の経は即是諸経の転輪聖王なり 開目抄下
大雲経 の名の謂れは分かりませんが、経文から 大方等無想經 (0387) 曇無讖譯 の事だという事が判ります
12.1083b09:ページに: 經典當知是經即是諸經轉輪聖王 の言葉が有ります
2016/10/23(改編)
像法決疑経
正式名 仏説像法決疑経 (2870) 偽経 とされている。
引用書簡 蓮盛抄[禅宗問答抄]、 八宗違目抄、 早勝問答、 釈迦一代五時継図、
一代五時継図
大経
引用 第三阿闍世王の事 文句の一に云く 阿闍世王とは未生怨と名く、①
又云く大経に云く阿闍世とは未生怨と名く②
又云く大経に云く阿闍を不生と名く③ 世とは怨と名く④。
書簡 御義口伝巻上
先ず、 「阿闍世王とは未生怨と名く」だが、これは迦葉菩薩品第十二之二に提婆達多が善見太子をそそのかす、そのやりとりに出て来る会話だ。
だが涅槃経の釈迦の真意は、そのように説かれてはいない。
それは卷第二十の梵行品第八之六をよく読み込めば理解できる筈だ。
以見佛性故。則得安住大般涅槃。
是名不生。是故名爲 爲阿闍世。
善男子。阿闍者名不生。不生者名涅槃。世名世法。
爲者名不汚。以世八法所不汚故。無無邊阿僧祇劫不入涅槃。
是故我言。爲阿闍世。無量億劫不入涅槃。と
阿闍(アジャ)を不生と名づく。 である
怨みどころか、 不生とは名付けて涅槃だと説いている。
上記のように不生佛性を見ない故だと釈迦はいっている。未生と不生は似て非なる言葉で、涅槃経には未生はない
未生の怨み とはいったい何処からの発想か。
中華魔道に歪んだ智顗は世法ではなく、怨みを採用したのだが
参考までに 経には 未生怨という言葉は存在する。
それはアジャセではなくマカダ王に名付けられた言葉だ。
寂照神變三摩地經 (No. 0648 玄奘譯 )15.0725a20: 摩掲陀王名未生怨。
③の「又云く大経に云く阿闍を不生と名く」は半分正解
④の 「世とは怨と名く。」 は 馬鹿らしくて話す気にもならない。
もっとよく涅槃経を読めば 「世名世法」 と言っているのだ。
世法=世 だが、どのような根性から「怨み」部分だけを取るのか?
佛性を見ない者にはその煩悩から怨みを生ずる。そういう者には世界は怨みだ
「又云く大経に云く阿闍世とは未生怨と名く」の元は 釈迦の真意ではなく、提婆達多の唆しの会話である。
私が智顗を馬鹿にするのは、ろくに経を理解せずにに平気でこのようなミスリードを書くからだ。
智顗がたいして経を読んでいない事が分かるが、彼が学んだ参考書もすでに魔道に汚染されていたのだろう。
支那仏教がそうなる事は 仏説分別経に書かれている。
頻婆娑羅王は多くの経にその名が登場し、大集経では仏が直接王に語り掛けている。
だが彼を殺すの殺されるだのの話は、どの経にも存在しない。
これもまた支那で造られた話で、神清の北山録の「提婆達多作謀弑父囚殺頻婆娑羅王」が発生元だ。
ちゃんと自分の目でオリジナルの経を読んで釈迦の言葉を分別して、それを理解すること。
自分が常々それをブログに繰り返すのは上記のような事例が多々あるからである。
0 件のコメント:
コメントを投稿